「二島のみ返還」を深く憂慮する!・・・日露首脳交渉
2019年3月 3日 tag:
安倍首相が、昨年秋から「二島のみ返還」に舵を切ったことは既に書いた。シンガポール会談(18年11月14日)で、「日ソ共同宣言を基礎に平和条約交渉を加速する」と合意した時からだ。
この合意では、「四島の帰属」問題の解決を明記した「東京宣言」(92年)にも、「イルクーツク声明」(01年)にも触れられていない。過去、営々と積み重ねられた外交成果に、あえて触れない首脳合意が意味するものは大きい。共同通信も『安倍政権、2島決着案を検討 北方4島返還「非現実的」』(1月21日)と書いた。埃を被っていた古文書(「56年宣言」)だけに触れ、あえて「基礎」とした意味とは、そういうことだ。
プーチン大統領にしても、二島を返し、平和条約まで結びながら、あとの二島の返還の余地を残す合意などできるはずもない。これで「すべて決着」という成果を得られない限り、二島返還もしないという覚悟だろう。
この合意を受けて、安倍首相がこの問題で頼る鈴木宗男氏のブレーンである東郷和彦氏、佐藤優氏が、口裏を合わせたかのように「二島返還+α」論をメディアに発信しているのも、「来るべき時」に備えた環境整備と考えられる。「二島返還+α」とは、歯舞、色丹は返してもらうが、国後、択捉の主権はロシアに認め、この二島とは経済的人的交流等を自由にするといった案だ。官邸との連携プレーも推測される。
こういう事態に至った背景は、16年12月15日の山口県「長門会談」にさかのぼる。ご記憶かもしれないが、それまでは官邸から、しきりに「年末の日露首脳会談で二島返還。あとの二島は継続協議」という情報が意図的に流されたものだ。しかし、ターニングポイントはこの「長門会談」の直前に訪れる。それは、谷内国家安全保障局長の訪露時(2016年11月)の不用意な「失言」だった。
ここで彼は、外務官僚の「生真面目さ」から、ロシア側の問いかけに、北方領土返還後の米軍基地設置の可能性に言及したのだ。この結果、「長門会談」は、「共同声明」はおろか、単なる「プレス向け声明」(一枚紙)の発出で終わり、そこに「領土」の二文字すらなかったのである。この時のサシの会談で、プーチン大統領が「シンゾー、領土は(理屈ではなく)血を流してとるものだ。その覚悟はあるのか!」と凄んだという話も、当時、聞こえてきたものだ。
その後、プーチン大統領は、この四島の「安全保障上の重要性」を理由に態度を硬化させ、その軍事基地化を進めてきた。ここはロシア艦隊の太平洋への出口であり、米国からの攻撃(特に原子力潜水艦)を防御する戦略的要衝の地なのだと。
こうした基本的構図は、その後、度重なる首脳会談を重ねてみても、何ら変わることはなかった。そして、昨年9月、「前提条件なしで平和条約を締結しよう」というプーチン大統領の不規則(用意周到?)発言が飛び出したのだ。そして、いよいよ追い詰められた安倍首相が、自らの任期中に、兎にも角にも「二島のみ返還」を成し遂げ、「歴史に名を残したい」という功名心から、あえて「期限」を切って交渉を急いできたのだ。
しかし、この「主権」の問題を、そうした「邪心」で処理してもらっては困る。私も、この「北方領土交渉」に携わった経験(「クラスノヤルスク合意」97年11月)があるので、その困難さは十分わかっているつもりだ。元島民の老齢化のことも認識しているし、領土(外交交渉)に100対0がないことも承知している。
ただ、そもそも、安倍首相とプーチン大統領は、これまで25回も会談したというが、プーチ大統領が来日したのは、最近では「長門会談」の一回のみだ。首脳外交は「相互訪問」が基本で、ロシアに「お百度」を踏む「朝貢外交」では、交渉のテーブルにつく前から負けているというのが外交常識だ。結果、プーチン大統領は、完全に安倍首相の足もとを見透かしている。
ちなみに、「橋本vsエリチィン」の時は、まず東京とモスクワの中間地点のクラスノヤルスクで「ノーネクタイ会談」(97年11月)をし、「東京宣言に基づき2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」ことで合意。その翌年の4月には、こんどはエリチィン大統領が訪日、橋本首相が「川奈提案」をした。これが対等の交渉スタイルというものだ。
何度も言うが、外交交渉、特に領土交渉には「タイミング」というものがある。その「時」でない時に、いくら「押してもだめ」で、こちらの足元を見られるだけだ。現に、今の日露交渉は完全にロシア側のペースで、プーチン大統領は「領土」をエサに、良い様に日本に「経済カード」を切らせようとしている。
「二島のみ返還」論者は、「今が最後のチャンス」「安倍・プーチンでなければ解決できない」「四島はもはや無理」「こだわれば二島すら失う」云々と言い募るが、どこにそんな根拠があるのか?未来永劫、そのチャンスは絶対に来ないとでも言うのか?
実は、「二島のみ返還」ではなく、「二島先行返還」「あとの二島は継続協議」のチャンスは、過去、二度あったと言われる。
一度目が、1992年3月、コズイレフ露外相が訪日した時だ。露側は非公式に「日ソ共同宣言に基づき、まずは歯舞・色丹二島についての引渡し交渉を始め、合意を得たら協定を締結。その後、国後・択捉について交渉、合意したら平和条約を締結」という提案をしたという。しかし、この、今では考えられないような譲歩案も、日本側が「四島一括返還」の原理原則論で一蹴したという。
二度目が、2001年3月の「イルクーツク声明」だ。この声明の「肝」は、四島の帰属問題を解決して平和条約を結ぶという「東京宣言」と、二島引渡しを明示した「日ソ共同宣言」の双方を基礎として、平和条約締結交渉を行うという点だ。露側はその意図を公式には認めようとはしなかったが、日本側からすれば、この「声明」を全体として解釈すれば、「二島のみ」でもない、「四島一括」でもない、「二島先行返還」への光明が見えた首脳合意であった。
しかし、如何せん、その直後に森政権が倒れ、小泉内閣が誕生し、外相に就任した田中真紀子氏が「四島一括」にこだわり、こうした「阿吽の呼吸」の領土問題解決への道筋すら消え失せてしまったのだ。日本側は、こうした「千載一遇のチャンス」を二度、とり逃がした。今になって考えると「逃がした魚は大きい」。私も、この「二島先行返還」なら、あとの二島の帰属が継続協議でも、平和条約を結ぶ価値は十分にあると考える。
しかし、安倍首相の目指す「二島のみ返還」なら、過去の先人の努力はすべて水泡に帰する。「二島」のみなら、過去、いくらでも妥協するタイミングはあった、あくまで歴史的かつ国際法的正義に照らし、露側に日本の「四島主権」を認めさせるのが最低限のラインとするからこそ、歴代政権は大変な苦労をしてきたのだ。橋本政権時の「川奈提案」も、択捉島の外側に国境線を引ければ、当面、四島の施政権は露に認めるという、このラインギリギリの提案だった。
領土交渉を話し合いで解決しようと思うのなら、それは、北朝鮮との拉致問題と同じように、残念ながら、本当に相手が困っている時でないと進まないものだ。上述の「クラスノヤルスク合意」当時、ロシアを巡る状況は深刻だった。経済困窮だけではない。ソ連崩壊以降、NATO(北大西洋条約機構)の東方拡大が進行していた。安全保障面で、従来、ロシアとの同盟関係にあった東ヨーロッパの国々が、次々に西側陣営に与するようになっていたのだ。
こうしたロシアの「窮状」に、悪い言葉で言えば「乗じて」、そのロシアをアジアの一国として扱おうというのが、橋本首相が提唱した「ユーラシア外交」だった。それにエリチィン大統領は呼応した。そして、忘れてはいけないのが、独・コール首相の存在だった。当時、ロシアへの経済協力でエリチィン大統領の首根っこを押さえていたコール首相が、「橋本vsエリチィン」の仲介役を買って出てくれたのだ。
そう、今の日露領土交渉との大きな違いの一つが、この時は、第三国が日本側に立って協力してくれたことだ。当時の米クリントン大統領の後押しもあった。しかし、今回の交渉に対しては、米国や欧州からは、協力・支援どころか、むしろ、日本への冷めた、いや厳しい視線が注がれているとも言えるだろう。安倍首相の「経済協力カード」が、ロシアへの「経済制裁に風穴」を開けたという理由でロシア側から評価されているように、クリミア問題で歩調を合わせている欧米からすれば、日本はむしろ「何なんだ」ということだ。
私は、これからのロシアの国力の推移や国際(安全保障)環境の変化如何では、必ず、その「時」は来ると信じている。外交は駆け引き、バーゲニングだ。にもかかわらず、安倍首相の前のめりの姿勢で、「その時」でもないのに、日本側が一方的になけなしの「経済協力カード」を切ってもらっては困るのだ。それでは、本当に「その時」が来た時に、切るカードがなくなってしまうではないか。
外交交渉は「押してダメなら引いてみな」、その「タイミング」でない時は、「ここは我慢」という「待ちの姿勢」も必要だ。元島民の老齢化やその思いも重要だが、主権が一旦、国際条約で確定されれば、それは未来永劫に続く。一首相、一個人の思いで性急な決着に持ち込むことは、我が国の歴史に大きな禍根を残すこととなるだろう。
今、その勇気が求められている。
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