【独占手記】江田憲司が初めて明かす普天間合意「23年目の真実」
2019年2月27日 tag:
私には、今でも忘れられない光景がある。時は1996年12月4日。場所は沖縄県宜野湾市のラグナガーデンホテル。当時の橋本龍太郎総理と沖縄の基地所在市町村長との会合でのことだ。
その場を支配していた雰囲気は、感涙にむせび、その涙をこらえる嗚咽(おえつ)ともつかない声で満ち満ちていた。そして、この会の最後に発せられた地元新聞社社長の言葉が象徴的だった。
「こういう雰囲気は、40年のマスコミ生活を通じて空前の出来事だ。これまで沖縄は、被支配者としての苦悩の歴史だった。橋本総理、本当にありがとう。どうか健康には留意してください、それがここにいる皆の願いです」。
橋本総理の沖縄への篤(あつ)い思い、真摯(しんし)な向き合い方が、ヤマトンチュ(本土人)とウチナーンチュ(沖縄の人)の厚い壁を初めて打ち破った! と心の底から感じられる、そういう「歴史的瞬間」だった。当時の私の日記をひもとき、そこに出席した各市町村長の言葉をもう少し聞こう。
那覇市長「総理は沖縄の心を十二分に理解してくれている。その情熱が心強い」
名護市長「沖縄に『お互いに会えば兄弟』という言葉があるが実感した。沖縄の痛みがわかる総理に初めて会った。あとは感謝で言葉にならない。」
宜野湾市長「一国の総理が心を砕き、我々の国政への信頼が倍加した。普天間基地の跡地開発をしっかりやりたい。」
金武町長「希望が見えた。町民全体が燃えている」
読谷村長「日本の生きた政治を見る思い。村長をして22年になるが、総理が初めてボールを沖縄に投げた。もうやるしかない」
これを受けて、橋本総理があいさつに立った。
「私がひねくれていた頃、数ある従兄弟(いとこ)連中と片っ端からけんかをしていた。その中で岡山にいた源三郎兄、彼は海軍の飛行練習生だったが、唯一私をかばってくれた。最後に会ったのは昭和19年の初夏、その時、彼は、継母になじむように私に小言を言ってくれた。そして、『今度会うときは靖国で』と言って、その年の10月、南西方面で還らぬ人となった。だから、これまで春と秋の例大祭には必ず、私は靖国神社を参拝してきた。それが我が国の外交に影響するのであれば自制したいが、彼が戦死した南西諸島というのが沖縄だということを知ったのは、戦死公報が届いた後のことだった」
ここで不覚にも、私までが涙してしまったことを覚えている。
普天間飛行場の返還。それは、当時の橋本総理が、まさに心血を注いで成し遂げたものだ。元々、幼少期に可愛がってくれた従兄弟を沖縄戦で亡くしたという原点もあり、何度も総理として沖縄入りし、また、都合17回、数十時間にわたり、当時の大田昌秀沖縄県知事と直談判して、まとめあげたものだ。
1996年1月に発足した橋本政権は、村山富市前政権から困難な課題を二つ、引き継いでいた。一つは「住専問題」、そして、もう一つが、この「沖縄の基地問題」だった。1995年9月に起こった海兵隊員による少女暴行事件、それに端を発する沖縄県民の怒り、基地負担軽減、海兵隊の削減等を要求する声は頂点に達していた。
こうした声を受けて、橋本総理は、政権発足早々から一人、この沖縄問題を真剣に考えていた。夜、公邸に帰ってからも、関係書物や資料を読みふけったり、専門家の意見を聞き、思い悩んでおられた。
そんな時、旧知の故・諸井虔氏(元日経連副会長・秩父セメント会長)から、秘書官である私に「大田知事とは、彼を囲む沖縄懇話会というのをやっている。当選の時から懇意にしているから本音の話もできる。知事からも外務省や防衛庁などの官僚ルートを通さず、総理に直接、生の声を伝えたいとの希望がある」との話があった。私と諸井氏は、私が通産省窯業建材課勤務の時に、セメント産業の構造改善事業を通じて交友があった。
そこで、早速、このルートで知事の意向を確かめたところ、諸井氏から「普天間飛行場の返還を、初の首脳会談の場で口の端にのせてほしい。そうすれば県民感情は相当やわらぐ」との感触を得た。1996年2月21日のことだ。あえて「人払い」のため、役所出身の事務秘書官がいる官邸執務室ではなく、わざわざ自民党本部の総裁室で、私は総理と諸井氏との会談をセットしたのだ。
ちなみにこの時、大田知事は決して「反米」ではなく、むしろ「アメリカのファン」で、また、橋本龍太郎という政治家を信頼し尊敬していることも分かった。今後、この問題では、総理⇔江田⇔諸井⇔知事のルートで進めていくことも確認した。
しかし、この「普天間飛行場の返還」について、外務、防衛当局、殊に外務官僚は、いつもの「事なかれ主義」「対米追従主義」で全く取り合おうとはしなかった。普天間飛行場のような戦略的に要衝の地を米軍が返すはずがない、そんなことを政権発足後初の首脳会談で提起するだけで同盟関係を損なう、という考えだった。あたかも、安全保障の何たるかも知らない総理という烙印を押され、馬鹿にされますよと言わんばかりの対応だったのである。したがって、クリントン大統領との首脳会談(96年2月24日/サンタモニカ)用の事前の「総理発言要領」には、「普天間」というくだりはなかった。
橋本総理も、この外務当局の頑ななまでの対応を踏まえ、ギリギリまで悩まれた。首脳会談の直前まで決断はされていなかったと思う。しかし、クリントン大統領と会談をしているうちに、米国側の沖縄に対する配慮、温かい発言もあって、ついに総理は、その場で意を決して「普天間飛行場の返還」を切り出したのだ。「難しいことは分かってはいるが、沖縄県民の切なる願いは、普天間飛行場の返還である」。
当時、絶対返すはずがないと思われていた普天間飛行場の全面返還合意。それが実現できたのは、ひとえに、この総理のリーダーシップと沖縄に対する真摯な思い、それを背景に事務方の反対を押し切って「フテンマ」という言葉を首脳会談で出したことによる。会談後、総理からその首尾を聞かれた私は「フテンマという聞き慣れない四文字を、クリントン大統領の耳に残しただけで、この首脳会談は成功だと思います」と申し上げた。
この会談を機に、クリントン大統領も早速動き、その3日後にはペリー国防長官に検討を指示した。ペリー氏(あの黒船のペリーの末裔)も沖縄での従軍経験から、沖縄県民の思い、苦悩、実情を十分理解し、軍(特に海兵隊)との調整に大変な努力をされた。副大統領経験者の大物・モンデール駐日大使(当時)も含め、日米の首脳レベルの連携プレーが見事にワークした事例だったのである。この交渉が極めて異例な総理主導であったことは、担当の外務大臣、防衛庁長官にすら、その交渉そのものが知らされていなかったことに象徴されている。
その「返還合意」発表の96年4月12日。この歴史的な一日の動きを、改めて私の日記で再現してみたい。
18時半。総理から沖縄県知事に電話。
「今夜モンデール大使とギリギリの交渉をする。そのためには、今ある基地とは別の所にヘリポートをつくらなければならない。アセスの実施や地主の協力を得るためには県の協力が得られなければとてもやれない。それだけは約束を。交渉の中味は死に物狂いでやるが、どうなるかわからない。普天間を何とかするために全力を尽くす。県が全力を挙げて協力してくれないと後が進まない。古川官房副長官を中心にチームを作るので県も参加してほしい。私は、外務省、防衛庁、他の閣僚も飛ばしてやろうとしている。それだけの決心だ。県内に適地を探す、また本土の基地を含め、緊急時の使用も検討する」
これに対し、大田知事は、当初は「県の三役会にかけなければ」と口を濁していたが、「そこまで総理が言われるなら、できるだけのことをやります」
その後、モンデール大使と執務室で会談。返還合意。終了後、外務大臣、防衛庁長官、渡辺嘉蔵、古川貞二郎両副長官が入り、総理より説明。
「両大臣には申し訳ないが、私の責任で決めさせていただいた。各省庁には記者会見で知ってもらう」
外務大臣「総理の決断に感謝。日本側としては誠実に対応し、あらゆる努力をしていきたい」。ここで総理が防衛庁の局長に問題点の説明を促す。
防衛局長「アセスメントと地元対策に時間がかかる。跡地対策には原状回復と米軍への協力等が必要」
19時。総理より沖縄県知事に再び電話。
「今、大使と握手した。普天間基地は全面返還する。ここ5年から7年のうちに。条件は基地機能の維持。約束を果たしたことを認めてくれるか。そこでヘリポート問題。跡地について県の最大限の協力をいただきたい。各省庁にまたがる。古川副長官の下にタスクフォースを設置。そこに吉本副知事と調整官が入る。こうなれば、5-7年を1年でも早くするかどうかは私たちの問題。一緒にやろう」
「知事に喜んでいただいた。国と県が協力していこうと確認した」と総理が同席者に。その後、総理に促されてモンデール大使と知事が英語で電話。知事は、突然、大使が電話に出て驚くも良いムード。モンデール大使「知事の最善の努力をお約束していただき、ほっとしている」
20時より記者会見。「返還合意」をモンデール大使と発表。
この会見後、公邸に先回りして待っていた私は、思わず、帰ってこられた総理とどちらからともなく抱き合い、喜びあったことを覚えている。その時は、大田知事も「総理の非常な決意で実現していただいだ。全面協力する」との声明を出したのである。
ただ、普天間飛行場の返還は決まったものの、その移設先については日米交渉がデッドロックに乗り上げていた。移設先が決まらなければ返還も不可能となる。「普天間飛行場の代替機能を確保する」というのが条件だったからである。
もちろん、沖縄にとっては県外移設に越したことはない。しかし、そもそも当時は、「返すはずがない」という出発点からの交渉だったため、「県内移設」しか考えられなかったことも実情だった。
やはり「キャンプシュワブ沖案」しかないか。しかし、ここは珊瑚礁がきれいでジュゴンも生息する美しい海岸地帯だ。そこで、こうした生態系や騒音をはじめとした環境への負荷も比較的少なくてすみ、地元住民の負担もなるべく軽減、かつ日米安保からの要請も満たすという諸点をギリギリまで追求し、発案したのが「海上施設案」だった。土砂による「埋立て案」や、「メガフロート案」のようなコンクリート製の防波堤を打ちこむ必要のある工法では、その生態系に多大な影響を与える。誰もが納得する百点満点はなく、そのベストミックスを考え抜いた末の、苦渋の決断が「海上施設案」だった。
この案の経緯は、ある日、羽田空港に向かう車中で総理から「江田君、海上構造物というのは、一体技術面やコスト面でどこまでクリアーされているのか調べてくれ」という指示を受けたことからはじまる。私には、総理秘書官という立場上、色々なルートから様々な情報が入ってきていた。その中に、「あるいは最終局面では海上案も検討に値する。その場合は既に実用化されている浮体桟橋工法(QIP)が有効だ」という情報があった。私は「それなら良い工法がある。沖の鳥島やニューヨークのラガーディア空港に実例があるし、何といっても環境影響が少なく、かつ、容易に撤去可能で、基地の固定化の懸念も払拭できる」と答えた。
総理もこれなら、粘り強く理解を求めれば沖縄の人たちもギリギリ受け入れてくれるのではないかと決断された。相変わらず、事務当局は否定的であったが、別ルートで探ったところ、米国からも良い感触が伝えられてきた。その結果、1996年12月2日、米国とのSACO(沖縄における施設および区域に関する特別行動委員会)最終報告で、この案が採用されたのである。
その報告書にはこうある。「海上施設は、他の2案(注:嘉手納飛行場への集約とキャンプシュワブ内における建設)に比べて、米軍の運用能力を維持するとともに、沖縄県民の安全及び生活の質にも配意するとの観点から、最善の選択であると判断される。さらに、海上施設は、軍事施設として使用する間は固定施設として機能し得る一方、その必要性が失われたときには撤去可能なものである」。
そう、日米双方の合意として、この時は「将来的な基地の撤去可能性(出口)」についても言及されていたのである。
その後、この移設先を巡っての沖縄との交渉は紆余曲折を経た。しかし、97年12月24日、比嘉鉄也名護市長は官邸執務室で橋本総理と向き合い、自らの市長辞職と引き換えに、名護市辺野古への移設受入れを表明したのである。
「知事がどうあろうと私はここで移設を容認する。総理が心より受け入れてくれた普天間の苦しみに応えたい(ここで総理がすっと立って頭を下げる)。その代わり、私は腹を切る。場所は官邸、介錯は家内、遺言状は北部ヤンバルの末広がりの発展だ」。
まさに市長の身命を賭した「侍の言」に、その場にいた総理をはじめ皆が涙したものだ。
思えば、ことは、国と沖縄との関係、日米安保体制の下での基地負担のあり方ということにとどまらず、本当に総理と沖縄県知事、名護市長との、「人間対人間」の関係の極みまでいった交渉であった。いや、それを支えた梶山静六官房長官を含めて、当時の内閣の重鎮二人が、心の底からうめき声をあげながら真剣に取り組んだ問題であった。理屈やイデオロギー、立場を超えて、人としてのほとばしる力、その信頼関係に支えられたと一時本当に信じることができた、そういう取り組みだったのである。
しかし、このような全ての努力にもかかわらず、結論を延ばしに延ばしたあげく、最後に自らの政治的思惑で一方的にこの「極み」の関係を断ち切ったのが、大田知事だった。それまでの知事は「県は、地元名護市の意向を尊重する」と言っていたにもかかわらず、名護市長が受入れを表明した途端に逃げた。当日、時を同じくして上京していた知事は、岡本行夫首相補佐官らの説得にもかかわらず、名護市長とは会おうともせず、官邸で徒に先送りの方便を述べるだけだった。「方便」とは「移設先検討のための有識者委員会の設置」。それは知事側近さえ知らなかった、その場逃れの思いつきの提案だった。
これに怒声を上げたのが、意外なことに、いつもは温厚で感情を表に出さない古川官房副長官だった。「あなたはこれまで名護市の意向を尊重すると言ってきたじゃありませんか!名護市長が命をかけてやるというなら、それをサポートするというのが筋でしょう!それは格好をつけるためだけの、先送りの委員会だ!」。その言葉に、知事は下を向いてうなだれるしかなかった。
太田知事にも言い分はあるだろう。しかし、私は、当時の橋本総理の、次の述懐がすべてを物語っているように思える。「大田知事にとっては、基地反対、反対と叫んでいる方がよほど楽だったのだろう。それが思わぬ普天間返還となって、こんどは自分にボールが投げ返されてきた。その重圧に堪えきれなかったのかもしれない」。
そして、この総理と沖縄県知事の「人と人との関係の極み」は、それからまもなくのこと、98年2月、たった一本の電話で断ち切られたのである。それは、この問題を十数回もひざ詰めで進めてきた、知事と総理との直接の会談の場ではなく、秘書官風情の私への、一本の電話だった。
「総理に代わりましょう。この問題は総理と知事でやってこられたわけですから」と私が何度言っても、「その必要はない」「辺野古への移設は絶対に認められない」と言って、知事は一方的に電話を切ってしまった。
この普天間飛行場の返還が、これまで解決できなかった理由は多々あるが、橋本、小渕政権が終わり、森政権以降、総理に「沖縄」の「お」の字も真剣に考えない人間が続いたことが一番大きい。それに加えて、政治家や官僚にも、足で生の情報を稼ぐ、県民の肉声に耳を傾ける、地を這ってでも説得、根回しをするという努力が決定的に足りなかった。そういう人たちによる政治や行政が、沖縄県民に受け入れられることもなく、積年の不信感をぬぐい去ることもできなかった。
特に、民主党への政権交代時には、この分野では最もやってはいけない政治的なパフォーマンスが繰り広げられ、それが「パンドラの箱」を開け、その代償は限りなく大きいものとなった。「覆水盆に返らず」。「ガラス細工」のように周到に積み上げられた先人の努力は脆くも崩れ去り、沖縄との信頼関係は「橋本政権以前」にリセットされてしまったのである。
そして今、安倍政権は「辺野古が唯一の解決策」と言い募り、強引に沖縄を押し切ろうとしている。しかし、本当に辺野古は、移設先として「唯一の解決策」なのだろうか?鳩山政権時の「ダッチロール」があるだけに、政府として慎重にならざるを得ない立場はわからないでもないが、何よりもこの問題は、「沖縄の心」に真に寄り添わなければ、決して最終的に解決しはしない。安倍総理も心底「沖縄の皆さんの心に寄り添う」と言うなら、一旦ここで立ち止まって、今一度、再検証をしてみる必要があるのではないか?
96年当時と今は、東アジアを巡る安全保障環境をはじめ諸般の状況も大きく変わった。当時正しかったことが、今でも正しいとは限らない。そして、この普天間飛行場の返還を決めた時、同時に「海兵隊の削減」も沖縄は求めたが、当時の状況からは、橋本総理ですら、とてもそこまでは踏み込めなかった。しかし、それから10年以上が経ち、むしろ、米国の方から在沖縄海兵隊の8000人削減(グアムへの移転)が提案されたではないか(2006年5月/「再編実施のための日米のロードマップ」)。ことほど左様に、沖縄の米軍基地の必要性、その役割、機能等を巡っても、「10年スパン」でみれば、今時点では不可能と思えることが可能になることもある。
また、既に知られているように、普天間飛行場の代替機能は、沖縄県内に必ずしも置かなければならないものでもない。安全保障や軍事戦略上、海兵隊の即応能力や機動性等を確保するためには、県外移設でも十分にそれが担保されうる場合がある。海兵隊の運用は、「教育・訓練」「演習や実任務」「次に備えた部隊再編成・教育」というフェーズに分かれ、実際、在沖縄海兵隊も、これらに合わせ、普天間飛行場だけでなく、アメリカ本土、太平洋の各地をローテーションして動いており、半年間以上、沖縄を留守にしているともいわれる。
さらに、最近では、北朝鮮のミサイル能力の向上に伴い、米軍側に、海兵隊を沖縄のような前線に常置しておいて良いのか、抑止力や反撃能力のことを考えれば、むしろ、もっと後方(例えばグアム)に配備した方が戦略的に正しいのではないかとの声も上がり始めたと聞く。
そうした機会をとらまえて、日本、沖縄においても米軍基地の再編が起こる可能性は十分にあるだろう。そうした時に「代替機能」が本当に沖縄に、日本国内に必要なのか、その問題提起をもう一度、米国にしてみる価値はあるのではないだろうか。少なくとも、そうした「思考回路」を持つことが、この問題を解決に導くこともあるということを、常に為政者は頭に置いておくべきだろう。
2015年4月18日。私は故翁長雄志知事と公舎でお会いした。その時、知事が一番懸念されていたのが「流血事故」の起こる可能性だった。基地建設、土砂搬入を阻止しようとする「人間の鎖」で「流血事故」の惨事にまで発展したら...。想像したくもないが、それが瞬く間に全世界にインターネットで配信されるようなことになれば、「人権大国」を自負する米国にとっても決して好ましい事態ではないはずだ。
改めて言う。普天間飛行場の返還、それは、当時の橋本総理がまさに心血を注いで成し遂げたものだ。こんな戦略的要衝の地を米国が返すはずがないという外務省の反対を押し切って、96年4月、クリントン大統領との直談判で確約を取りつけたのだ。
それほど、この国のトップリーダーが、時々の国際政治、安全保障環境、国内、特に沖縄の実情等を総合的に勘案して、決断、実行していくべき課題なのである。その自覚が、認識が、今の安倍総理にあるだろうか?それは、安倍総理の沖縄への向き合い方をみれば明らかだろう。当時の橋本総理のそれとは比肩すべくもない。
振り返れば、この問題で、安倍総理は故翁長知事に、彼の当選後、4か月以上経っても会おうとしなかった。普天間飛行場の代替機能の確保が、国の安全保障上重要な課題だと言うなら、知事当選後、本来なら速やかに総理の方から沖縄に出向いてでも協力を要請すべきだった。その後も時折、ふと思いついたように不承不承、知事と会うことはあっても、原則、この問題の処理を菅義偉(よしひで)官房長官に任せている。
当時の橋本総理が知事と直接、しかも二人きりでひざ詰めで談判していたのとは彼我の差だ。そうした対応が「これまでは被支配者の苦悩の歴史だった」沖縄の人々の心に響くわけもなく、これでは到底、辺野古移設への沖縄県民の理解は得られないだろう。
そして、昨年12月14日、法的手段の応酬にまで発展し泥沼化した双方の対立は、とうとう、辺野古への土砂投入という重大局面に突入した。沿岸部の埋立てによる飛行場建設は、96年の返還合意時に採用された「海上施設(杭打ち桟橋方式)案」とは違い、将来にわたって恒久施設化する可能性が高く、また、藻場やリーフの破壊、海流の変化による生態系への悪影響等環境への負荷が著しく大きい。そして、何よりも、日々刻刻、もう「後戻り」できない可能性が高まる選択肢でもある。
この「ヤマトンチュ政権」の強行に、玉城デニー知事は「本当に胸をかきむしられるような気持ち」と天を仰ぎ、琉球新報は「軍隊で脅して琉球王国をつぶし、沖縄を『南の関門』と位置付けた1879年の琉球併合(「琉球処分」)と重なる」と書いた。
今、橋本総理が生きておられたら、こうした事態を目の当たりにし、一体、何とおっしゃるのだろうか。
(産経 iRONNA 2月23日掲載)
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