シリーズ「集団的自衛権」を考える・・・⑩この閣議決定は「集団的自衛権の限定容認」か?_1
2014年7月 7日 tag:
7月1日、安倍内閣は、世上、「集団的自衛権の限定容認」と称される閣議決定を行った。翌朝の各紙一面トップには、そうした見出しが所狭しに躍った。
しかし、私には、その美しい?「官庁文学」に彩られた閣議決定文からは、どうしても「集団的自衛権の限定容認」という意味が読み取れなかった。私の日本語読解能力が劣っているのだろうか。
その閣議決定文は8ページにも及ぶものだが、そこに「集団的自衛権」という6文字は一箇所だけ(正確には二か所だが過去の文書の表題として引用)だ。しかも「主文」ではなくて傍論的なところに「国際法上は集団的自衛権が根拠となる場合がある」と書かれているだけだ。「集団的自衛権の限定容認」という言葉は一切ない。しかも、会見冒頭で安倍首相は「集団的自衛権が現行憲法の下で認められるのかといった観念論ではなく」とも言っている。ますますわけがわからなくなる。
おまけに極めつけは「国際法上の根拠と憲法解釈は区別して理解する必要がある」。ここまでくると、究極の戦術的「あいまい戦略」だろう。
いや、それもこれも、ひたすら政局優先、憲法論・法律論よりも政治の言葉遊びに終始し、自公が折り合える着地点を限界まで追い求めた結果の、「究極の玉虫色決着」だからだろう。益々、こうした安全保障の根幹に関わる重要な問題については、徹底した国会審議を行い、それを通じてしっかりと国民の皆さんにも説明責任を果たす、理解を求めていくということが必要不可欠だと再認識した。
その上で、今回の閣議決定を詳細に分析していこう。
まず、最初の「武力攻撃に至らない侵害への対処」(いわゆる「グレーゾーン」への対応)については、結いの党としても、その場合の自衛隊出動の手続きの円滑化、迅速化をはじめとした万全の対応をとるということについて全く異論はない。今後、 粛々と法整備を進めていくということに賛成だ。
二番目の「国際社会の平和と安定への一層の貢献(いわゆる「集団安全保障」への協力」)については、閣議決定にもあるように、「他国の軍隊と武力行使の一体化はしない」という前提で、具体的な現場のニーズに則して柔軟に協力のあり方を検討していくということについても結いの党としても異論はない。
問題は、三番目の「憲法9条の下で許容される自衛の措置」(いわゆる「集団的自衛権」の限定容認)だ。ここが、閣議決定文を読めば読むほど、安倍首相の会見を聞けば聞くほど、疑問だらけの部分なのだ。
一つは、この「他国に対する武力攻撃が発生をし、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」というのは、現自衛隊法76条に規定される防衛出動の要件、すなわち「武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態」と、どこがどう違うのか、現実にはどこに差異があるのか?後者の防衛出動の要件にも、武力攻撃自体の発生まで求められているわけではなく、「切迫」していれば十分だからだ。
私にはほぼ同義に読めるし、当の安倍首相も会見で「新3要件は今までの3要件と基本的考えはほとんど同じ。表現もほとんど変わっていない」と言う。また、先にふれたように、会見冒頭、安倍首相は「集団的自衛権が現行憲法の下で認められるのか、そうした抽象的、観念的な議論ではない」とも述べている。ならば、一体、この閣議決定は何なんだ!本当に「集団的自衛権」を限定容認したものなのか。それは単に、我が国を防衛するためのやむを得ない「自衛の措置」と表現されているにすぎないではないか。
さらに、武力行使については「国際法上の根拠と憲法の解釈は区別して理解する必要がある」と述べた上で、その憲法上許容される上記の武力行使は、「国際法上は集団的自衛権が根拠となる場合がある」という、極めて、もってもってもって回った言い回しをしているのだ。
これはいったい何を言ってるのか? 素直に解すると、こうした武力行使は、国際法上は集団的自衛権の行使に当たる場合があるが、憲法解釈上はそれとは別で、個別的自衛権の行使、すなわち従来の解釈の範囲内なんだ、というようにも読める。 それから、「国際法上は集団的自衛権が根拠となる場合がある」ということは、そうでない場合もあることを認めている。それでは、その境界線、具体的な事例の区分け、振り分け、分類はどうなるんですか、ということだ。
こうした閣議決定文のクラリフィケーション(明確化)をするだけで、かなりの時間を国会審議では要するだろう。次週は、国際法的観点から、その教科書を紐解きながら、この閣議決定のわからなさ、矛盾点、おかしさを明らかにしていこう。
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