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江田けんじ 衆議院議員 神奈川8区選出(横浜市青葉区・緑区・都筑区)

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シリーズ:「集団的自衛権」を考える・・・⑥法律ではなく憲法上の歯止め必要

2014年6月 9日  tag:

 自衛隊の海外派遣には、憲法上の歯止めを保つことが極めて重要だ。法律では足らない。


 私は、海部・宮沢、橋本内閣での首相官邸勤務を通じて、湾岸戦争への対応やPKO協力法の策定、中台危機対応、日米ガイドラインの見直しなどに携わってきた。そこで痛感したのが外交や安全保障に知見や経験のない国会議員が多すぎるということだ。


 失礼な言い方になるが「子どもに鉄砲を持たせてはいけない」。だから、「法律で限定すればいいじゃないか」といった議論は説得力を持たないし、いつでも国会議員の手で改正できる法律上の歯止めは有効に機能しない。


 歴代政権は、その太宗を占めてきた自民党政権を含め、何十年にもわたって「集団的自衛権は保有するが、行使できない」と解釈してきた。立憲主義や憲法の最高法規としての安定性から、この「公権解釈」「有権解釈」を尊重するのは当然のことだ。


 その上で、近時の安全保障環境の変化や軍事技術の進展等に応じて、憲法改正に匹敵するような解釈の変更をしなければならないと言うなら、安倍政権はその必要性を挙証する重い責任がある。どんな具体的事例が想定されるのか、それが現実に我が国の安全保障上差し迫った事例なのか、そして、それは集団的自衛権という概念でないと絶対に説明できないものなのか。


 結いの党としては、現在、安保法制懇、あるいは、今自公(与党)協議の場に出されている15事例について、上記立場から精査している最中ではあるが、現時点のところ、こうした事例について、わざわざ集団的自衛権の概念を持ち出す必要はないと考えている。


 従来の個別的自衛権や警察権の解釈を「適正化」すれば、つまり、軍事の現場を知らない内閣法制局による「しゃくし定規な」「現実離れした」解釈を、軍事技術の進展や自衛隊の実際のオペレーションに合わせて補正すれば対応できるのではないか。わざわざルビコン川(歯止め)を渡るようなことをして、国論を二分させる必要はないだろう。


 なお、一部政党(ex.みんなの党)は、憲法解釈上、集団的自衛権を全面的に認めた上であとは法律で行使を限定するという方針を出しているが論外だ。安倍首相ですら「芦田修正論」を否定したが、解釈変更で集団的自衛権を全面的に容認すれば、憲法9条の意味はゼロになる。不戦条約以来、侵略戦争はしないという国際法の規定、国際社会の相場と9条は同義となり、現行憲法の3原則の一つ、「平和主義」の看板がなくなる。我々が習ってきた教科書すら書きかえなければならないような話だ。


 一方で、武力行使には至らない「グレーゾーン事態」にはしっかり対応すべきだし、PKO(国連平和維持活動)の駆け付け警護も、それが紛争当事者間の「停戦合意」があり、受け入れ国の「同意」を得て派遣される性格上、原則として警察権行使として認められるべきであろう。


 政権はなぜ、集団的自衛権の行使容認を急ぐのか。国民の理解は進んでいないし、国会議員にも自衛隊員が血を流す事態への覚悟があるとは思えない。これまでの内閣も、「後方支援」や「非戦闘地域」等の概念を編み出し、憲法上の歯止めを守ってきた。多少無理をしてでも「政治の知恵」を出してきた。なぜ今回もそうした努力をしないのか。安倍首相が「集団的自衛権」に踏み出した首相として歴史に名を残したいだけではないかとの批判があるが、あながち、否定することはできないであろう。


<<バックナンバー>>
「集団的自衛権」を考える・・・①「限定容認」か?「個別的自衛権の解釈適正化」か?(2014年04月14日号)
「集団的自衛権」を考える・・・②自衛隊の海外派遣(派兵)にはしっかりとした歯止めが必要(2014年04月21日号)
「集団的自衛権」を考える・・・③日本にはイラク戦争の総括がない!(2014年04月28日号)
「集団的自衛権」を考える・・・④解釈改憲する方に重い挙証責任(2014年05月12日号)
「集団的自衛権」を考える・・・⑤なぜ「集団的自衛権」でない事例を掲げたのか?(「安保法制懇」報告を受けた安倍首相会見)

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シリーズ:「集団的自衛権」を考える・・・⑦「先制的自衛」「武力行使の着手」という概念を駆使