橋本外交の真骨頂/「普天間基地返還」と「クラスノヤルスク合意」③・・・橋本龍太郎元首相7回忌・追悼集より
2012年6月18日 tag: 外交
普天間基地の返還は決まったものの、その移設先については、日米交渉がデッドロックに乗り上げていた。移設先が決まらなければ返還も不可能となる。もちろん県外移設に越したことはないが、受け入れてくれる所もなかった。
やはり「キャンプシュワブ案」しかないか。しかし、ここは珊瑚礁がきれいでジュゴンも生息する美しい海岸地帯だ。そこで、こうした生態系や騒音をはじめとした環境への負荷も比較的少なくてすみ、沖縄県民の負担もなるべく軽減、かつ日米安保からの要請も満たすという点をギリギリまで追求し発案したのが「海上施設案」だった。誰もが納得する百点満点はなく、そのベストミックスを考え抜いての、苦渋の決断だった。
この案の経緯は、ある日、羽田空港に向かう車中で総理から「江田君、海上構造物というのは、一体技術面やコスト面でどこまでクリアーされているのか調べてくれ」という指示を受けたことからはじまる。私には、総理秘書官という立場上、色々なルートから様々な情報が入ってきていた。その中に、「あるいは最終局面では海上案も検討に値する。その場合は既に実用化されている浮体桟橋工法(QIP)が有効だ」という情報があった。私は「それならいい工法がある。沖の鳥島やニューヨークのラガーディア空港に実例があるし、何といっても環境影響が少なく、かつ、容易に撤去可能で基地の固定化の懸念も払拭できる」と答えた。
総理もこれなら、粘り強く理解を求めれば沖縄の人たちもギリギリ受け入れてくれるのではないかと決断された。相変わらず、事務当局は否定的であったが、別ルートで探ったところ、米国からも良い感触が伝えられてきた。その後、紆余曲折を経たが、97年12月24日、官邸に来られた名護市長は「知事がどうあろうと私はここで移設を容認する。総理が心より受け入れてくれた普天間の苦しみに応えたい(ここで総理が立礼して御礼)。その代わり私は腹を切る(責任をとって辞任する)。場所は官邸、介錯は家内、遺言状は北部ヤンバルの末広がりの発展だ」。市長の侍の言に、その場にいた総理をはじめ皆が涙した。
思えば、ことは、国と沖縄県、日米安保体制の下での基地問題ということにとどまらず、本当に総理と知事、市長の、
人間対人間の極みまでいった交渉であった。いや、それを支えた梶山官房長官を含めて、当時の内閣の重鎮二人が心の底からうめき声をあげながら真剣に取り組んだ問題であった。理屈やイデオロギー、立場を超えて、人間としてのほとばしり、信頼関係に支えられたと一時本当に信じることができた、そういう取り組みだったのである。
この橋本総理の沖縄への思い、真摯な態度は、ヤマトンチュとウチナンチュの厚い壁をはじめて打ち破ったとも言える。96年12月4日、総理が沖縄入りした時の、基地所在市町村会での雰囲気がそれを象徴していた。場所はラグナホテル。当時の私の日記を紐解こう。
那覇市長「総理は沖縄の心を十二分に理解してくれている。その情熱が心強い」名護市長「沖縄に『お互いに会えば
兄弟』という言葉があるが実感。沖縄の痛みがわかる総理にはじめて会った。あとは感謝で言葉にならない」宜野湾市長「一国の総理が心を砕き、国政への信頼が倍加した。普天間の跡地開発をしっかりやりたい」
金武町長「希望が見えた。町民全体が燃えている」読谷町長「日本の生きた政治を見る思い。村長をして22年になるが総理がはじめてボールを沖縄に投げた。やるしかない」等々。
そして橋本総理が最後に挨拶に立った。
「私がひねくれていた頃、数ある従兄弟連中と片っ端から喧嘩をしていた。その中で岡山にいた源三郎兄い、彼は海軍の飛行練習生だったが、唯一私をかばってくれた。最後に会ったのは昭和19年の初夏、その時彼は、継母になじむように私に小言を言ってくれた。そして、今度会うときは靖国でと言って、その年の10月、南西方面で還らぬ人となった。だから、これまで春と秋の例大祭には必ず私は靖国を参拝してきた。それが我が国の外交に影響するのであれば自制したいが、彼が戦死した南西諸島というのが沖縄だということを知ったのは、戦死公報が届いた後のことだった」
ここで不覚にも私も涙してしまったことを今でも記憶している。
会議に出席した市町村長の何人かは、総理の言葉に感動して、涙とも嗚咽ともつかない声
を押し殺していた。地元新聞社社長の最後の言葉が忘れられない。
「こういう雰囲気は40年のマスコミ生活を通じて空前の出来事だ。これまでは被支配者の苦悩の歴史だった。橋本総理、本当にありがとう。どうか健康には留意してください、それがここにいる皆の願いです」。
沖縄問題がこれまで解決できなかった理由は多々あるが、森政権以降、総理に「沖縄」の「お」の字も真剣に考えない人が続いたことが一番大きい。それに加えて、政治家や官僚にも、足で生の情報を稼ぐ、県民の肉声に耳を傾ける、地を這ってでも説得、根回しをするという努力が足りなかった。そういう人たちによる政治や行政が沖縄県民に受け入れられることもなく、積年の不信感をぬぐい去ることもできなかった。
そして政権交代がなり、この分野で最もやってはいけない政治的なパフォーマンスが繰り広げられ、それが「パンドラの箱」を開け、その代償は限りなく大きいものとなった。「覆水盆に返らず」。周到に積み上げられた「ガラス細工」は完全に崩れ去り、この問題は「橋本政権以前」にリセットされてしまった。
今、橋本先生が生きておられたら何とおっしゃるか。無念でならない。
【今週の直言】
橋本外交の真骨頂/「普天間基地返還」と「クラスノヤルスク合意」①・・・橋本龍太郎元首相7回忌・追悼集より
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