橋本外交の真骨頂/「普天間基地返還」と「クラスノヤルスク合意」② ・・・橋本龍太郎元首相7回忌・追悼集より
2012年6月11日 tag: 外交
普天間基地の返還。それは、当時の橋本総理がまさに心血を注いで成し遂げたものだ。元々、幼少期かわいがって
くれた従兄弟を沖縄戦で亡くしたという原点もあり、何度も沖縄入りし、都合17回、数十時間にわたり、当時の沖縄県
知事と直談判して、まとめあげたものだ。
96年1月に発足した橋本政権は、前村山政権から困難な課題を二つ、引き継いでいた。一つは「住専問題」、そして、
もう一つが、この「沖縄問題」だった。95年秋に起こった海兵隊員による少女暴行事件。それに端を発する沖縄県民の
怒り、基地負担軽減、海兵隊の削減等を要求する声は頂点に達していた。
こうした声を受けて、橋本総理は、政権発足早々から一人、この沖縄問題を真剣に考えていた。元々橋本先生は、
政治家として沖縄との接点が多い方だったが、夜、公邸に帰ってからも関係書物や資料を読みふけったり、
専門家の意見を聞き、思い悩んでおられた。
そんな時、旧知の故・諸井虔氏(元日経連副会長・秩父セメント会長)から私に、「知事を囲む沖縄懇話会というのを
やっている。沖縄県知事とは懇意にしているから本音の話もできる。知事からも官僚ルートを通さず総理に本音を
伝えたいとの希望がある」との話があり、早速、このルートで知事の意向を確かめたところ、「普天間基地の返還を
首脳会談での総理の口の端にのせてほしい。そうすれば県民感情は相当やわらぐ」との感触を得た。
しかし、外務、防衛当局、殊に外務官僚は、いつもの「事なかれ主義」で、まったく取り合おうとはしなかった。普天間
基地のような戦略的に要衝の地を米軍が返すはずがない、そんなことを政権発足後初の首脳会談で提起するだけで
同盟関係を損なう、という考えだった。あたかも、安全保障の何たるかも知らない総理という烙印を押され馬鹿に
されますよ、と言わんばかりの対応だった。したがって、96年2月24日のサンタモニカでのクリントン大統領との首脳会談での事前の発言要領には、「普天間」というくだりはなかったのである。
橋本総理も、この外務当局の対応を踏まえ、ギリギリまで悩まれた。首脳会談の直前まで決断はされていなかったと
思う。しかし、クリントン大統領と会談をしているうちに、米国側の沖縄に対する温かい発言もあって、総理はその場で
「普天間基地の返還」を切り出されたのである。
絶対返すはずがないと言われていた普天間基地全面返還合意を96年4月に実現できたのは、すぐれて、この総理の
リーダーシップと沖縄に対する真摯な態度、それを背景として、事務方の反対を押し切って「フテンマ」という言葉を出した
ことによる。
会談後、総理から、その首尾を聞かれた私は「フテンマという聞き慣れない四文字をクリントン大統領の耳に残しただけで、この首脳会談は成功だと思います」と申し上げたことを今でも覚えている。
この会談を機に、クリントン大統領も早速動き、その三日後にはペリー国防長官に検討を指示した。ペリー氏も沖縄での従軍経験から沖縄県民の苦渋、思い、実情を十分理解し、軍との調整等大変な努力をされた。副大統領経験者の大物・モンデール駐日大使(当時)も含め、日米の首脳レベルの連携プレイが見事にワークした事例だったのである。この交渉が極めて異例な総理主導であったことは、担当の外務大臣、防衛庁長官にすら、交渉そのものが知らされていなかった
ことに象徴されている。
96年4月12日。官邸での記者会見で「返還合意」を発表したあと、公邸に戻り、思わず総理と抱き合い喜びあったことを今でも覚えている。その時は沖縄県知事も「総理の非常な決意で実現していただいだ。全面協力する」との声明を出したのである。
(次週に続く。)
【今週の直言】
橋本外交の真骨頂/「普天間基地返還」と「クラスノヤルスク合意」①・・・橋本龍太郎元首相7回忌・追悼集より
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