橋本外交の真骨頂/「普天間基地返還」と「クラスノヤルスク合意」①・・・橋本龍太郎元首相7回忌・追悼集より
2012年6月 4日 tag: 外交
私と橋本龍太郎先生とのはじめての出会いは1994年6月のことだった。その時、弱冠39歳の私は、村山内閣の
通産大臣に就任された先生の事務秘書官に任命されたのだ。
郷土岡山の大先輩でありながら、橋本先生はまさに「雲の上の存在」。通産官僚として行革の仕事もしていた
私にとって、連日、新聞紙上を賑わす「橋本龍太郎自民党行財政調査会長」の名前は、まばゆいばかりの光を放って
いた。その橋本先生のお側にお仕えしようなど、夢にも思わなかったものである。
しかし、それは何の運命のいたずらか、現実に起こった。実は私は、細川政権への政権交代時にも秘書官候補に
あがっていたのだが、その時は一年先輩の官僚がなった。その後ということで、私は誰が通産大臣になろうとも先に
秘書官と決まっていたのである。
当時、「江田は岡山出身だから橋本の秘書官になった」ともいわれたが、それは事実と違うし、むしろ私の親戚は、
同郷のライバル政治家、加藤六月先生の後援会に名を連ねていた。そういう意味では、当時の事務次官から秘書官に
なるにあたり「同郷というのは良いこともあるが、逆に関係が良くないということもある。君は大丈夫か」と問いただされた
ことを覚えている。
以来、その後の総理秘書官(政務担当)時代(2年7カ月)を合せて4年1ヵ月。おそらく奥様以上に共有の時間を過ごす
ことになった。あらためて感謝したいのは、こうした若輩者の生意気な進言にも大いに耳を傾け、また、日々ご指導を
いただいたことだ。今から思えば冷や汗ものだが、当時の私はまさに「若気の至り」「怖いもの知らず」だった。
そして後悔は、今、政治家の端くれとなり、選挙も経験し、多少世間というものを、政治というものを知るようになって、
ご存命なら、もっともっと聞いておけば良かったと思うことがほとばしってくることだ。当時の私は、あまりにも未熟で、
そして、国政全般にわたる経験不足、知識不足だった。この人生における千載一遇のチャンスを十分に生かしえなかった
こと、そして、秘書官として十分に総理をお支えできなかった不明を恥じるばかりである。
私事にわたるが、私の父も、橋本先生がお亡くなりになる半月ほど前に他界した。私にとっては、政治の父と実の父を同時に失ったのが2006年という年だった。ここに故人の7回忌をお迎えし、あらためて心からご冥福をお祈り申し上げます。
橋本総理のご功績、それは枚挙に暇がない。昨今の政治の体たらくを見るにつけ、益々その感を強くする。総理という地位がいかに軽くなったことか。もちろん、橋本政権にも「光と陰」があり、そのすべてを正当化する気はさらさらないが、橋本政治の真骨頂は、まさに「外交」にあった。
外交では、昔から宮廷外交とか、首脳外交と言われるように、一国のトップリーダーが、権謀術数うずまく国際場裡で、場数を踏んだ各国首脳との間で、大きな歴史的流れを汲みとり、自ら決断を行い、国益を守っていくことが求められる。
その意味で、いかに首脳外交が重要な役割を果たしうるか、戦略的外交とは何か、ということを、96年4月の「普天間基地の返還合意」と97年11月の「クラスノヤルスク合意」は教えてくれた。(つづく)
Copyright(C) Kenji Eda All Rights Reserved.