日露間での「クラスノヤルスク合意」。それは「東京宣言に基づき、2000年までに平和条約を締結するよう全力を尽くす」という合意である。 時は、96年秋の独コール首相と橋本総理との会談にさかのぼる。実
普天間基地の返還は決まったものの、その移設先については、日米交渉がデッドロックに乗り上げていた。移設先が決まらなければ返還も不可能となる。もちろん県外移設に越したことはないが、受け入れてくれる所もな
普天間基地の返還。それは、当時の橋本総理がまさに心血を注いで成し遂げたものだ。元々、幼少期かわいがって くれた従兄弟を沖縄戦で亡くしたという原点もあり、何度も沖縄入りし、都合17回、数十時間にわたり
私と橋本龍太郎先生とのはじめての出会いは1994年6月のことだった。その時、弱冠39歳の私は、村山内閣の 通産大臣に就任された先生の事務秘書官に任命されたのだ。 郷土岡山の大先輩でありながら、橋本
1
Copyright(C) Kenji Eda All Rights Reserved.