シリーズ/野田「財務省政権」の何が問題か?・・・⑥財政至上主義の蔓延
2011年10月17日 tag:
さて、いよいよ核心部分に入ろう。なぜ、この財務省の強大な権限、霞ヶ関や永田町への必要以上の影響力、すなわち「財務省支配」が問題なのか。
それは、一言で言えば、霞ヶ関や政治全体ひいては日本社会全体に「財政至上主義」の蔓延を許すからに他ならない。財務省が、自らの寄ってたつ基盤である「財政規律」「財政の論理」を守ろうとすることは当然としても、それが過度に行き渡りすぎることになるのだ。
それでは、なぜ、この「財政至上主義」がいけないのか。それは、新しい政策の芽や革新の動きを妨げ、その意欲をそぐからだ。霞ヶ関や永田町全体に、言いようのない現状維持的な、保守的な考え方が浸透するからだ。その結果、日本社会全体も停滞し、およそイノベーティブ(革新)な社会とはかけはなれていってしまう。
この点は、会社を例にとって考えてみればわかりやすいだろう。経理部が強い会社は確かに当面は堅実だ。しかし、大きな時代の流れを見通し、事業環境の変化に的確に対応し将来発展していく会社は、やはり企画部や研究開発部が活き活きとしている会社だろう。
会社は時代に乗り遅れて倒産しても影響が及ぶのは関係者のみだが、それが、日本株式会社となるとわけが違う。こういう霞ヶ関村の体質を抜本的に改革していくのが「行革の本質」だと私は考えている。
財務官僚には、残念ながら、この「財政至上主義」という体質がしみついている。財務省に入る人間が元々そのような人間だからではない。入省以来、そういう育てられ方をするからだ。若いときから、少しでも予算措置を伴うような文言には気をつけろ、そうした文言は徹底的に削除しろ、そういう訓練を骨の髄まで施されるのである。
何もそれが悪いと批判しているのではない。もともと、他人が考えてきた新しい政策、考えを切って捨てるのが財務省という組織の宿命なのだから。しかし、そういうところで育った人間に、自ら政策を作り出す、イノベーティブ(革新的)なアイデアをひねり出す、ということを期待してはいけないと言っているのだ。
誤解を避けるために繰り返し言うが、何も私は、財務省自身が「財政規律」「財政の論理」をふりかざすことを間違っていると言っているのではない。それはむしろ、彼らの当然の職責だ。
問題は、政府機能の中枢までを植民地化することでそれを果たすことは許されない、財務省は財務省を拠点に、それを堂々と主張すればいいと言っているにすぎない。日本株式会社に例えて言えば、経理担当の取締役と経理部長は必要だが、それ以上に、専務も副社長も社長も会長も経理部長出身者が占めてはいけないと言っているのだ。
イギリスのサッチャー政権は、フォークランド戦争について主要な決定を下した戦時内閣に大蔵大臣は入れなかった。その理由は、サッチャー氏自身が回顧録でも述べているように、戦争の遂行や外交が、財政上の理由で危うくなることを避けるためだった。
この例にみられるように、「財政の論理」が、他の「外交・安全保障の論理」「社会保障の論理」「経済の論理」に超越して、全てをドミネイト(支配)する、霞ヶ関や政府全体をコントロールすることが良くないと私は言っているのだ。
「国に滅びて財務省あり」。そうした国に、この日本を絶対にしてはいけない。
こう言うと、財務官僚からは、「財務省がそんなに強いのなら、こんなに財政赤字を抱えてはいない」という、一見もっともらしい反論が返ってくるだろう。しかし、一言でいえば、今生じている財政赤字は、政治との予算を巡る駆け引き、財政当局主導による政治との貸し借り勘定の中での結果であり、それは結局、対政治への、他省庁にはない財務省の力の源泉、そして結果的に見れば他省庁への影響力、すなわち省益、組織防衛の源になっているということだ。こうした財務官僚の言辞に惑わされてはいけない。
このような状況が今後とも続けば、この国の形はどんどん歪(いびつ)なものになっていくだろう。それはどうしても是正しなければならない。
もう一度言う。これが、霞ヶ関改革の本質なのである。(次週に続く)。
・シリーズ/野田「財務省政権」の何が問題か?・・・⑤財務省の殖民地支配
・シリーズ/野田「財務省政権」の何が問題か?・・・④財務省は富士山、他省庁は並びの山
・シリーズ/野田「財務省政権」の何が問題か?・・・③予算査定権、査察権が権力の源泉
・シリーズ/野田「財務省政権」の何が問題か?・・・②財政と金融の分離
・シリーズ/野田「財務省政権」の何が問題か?・・・①橋本行革の最大の課題
Copyright(C) Kenji Eda All Rights Reserved.