普天間基地の返還は決まったものの、その移設先については、96年夏頃まで「嘉手納案」と「キャンプシュワブ案」で日米交渉がデッドロックに乗り上げていた。移設先が決まらなければ返還も不可能となる。
そうした中でまず「嘉手納案」は米国と地元の反対で潰えた。米国は、嘉手納(空軍のジェット機)と普天間(海兵隊のヘリ)では離発着時に機体が輻輳し管制が困難であることや、一カ所に枢要な軍事機能を集約することによる安全保障上のリスク、空軍と海兵隊の関係等あげて反対したが、やはり最終的には嘉手納地元の強硬な反対が決定的だった。
それはそうだろう。嘉手納の地元住民にとっては、そうでなくても既存の基地問題で苦悩しているのに、「なぜ、加えて普天間を嘉手納に押し付けられるのか」という気持ちがある。また、嘉手納基地が3市町村にまたがっているという事情も交渉では大きかった。
もちろん、県外移設に越したことはないが、受け入れてくれる所もなかった。やはり「キャンプシュワブ案」しかないか。しかし、ここは珊瑚礁がきれいでジュゴンも生息する美しい海岸地帯だ。そこで、こうした生態系や騒音をはじめとした環境への負荷も比較的少なくてすみ、沖縄県民の負担もなるべく軽減、かつ日米安保からの要請も満たすという点をギリギリまで追求し発案したのが「海上施設案」だった。誰もが納得する100点はなく、そのベストミックスを考え抜いての、苦渋の決断だった。
この案の経緯は、ある日、羽田空港に向かう車中で総理から「江田君、海上構造物というのは、一体技術面やコスト面でどこまでクリアーされているのか調べてくれ」という指示を受けたことからはじまる。私には、総理秘書官という立場上、色々なルートから様々な情報が入ってきていた。その中に、「あるいは最終局面では海上案も検討に値する。その場合は既に実用化されている浮体桟橋工法(QIP)が有効だ」という情報があった。私は「それならいい工法がある。沖の鳥島やニューヨークのラガーディア空港に実例があるし、何といっても環境影響が少なく、かつ、容易に撤去可能で基地の固定化の懸念も払拭できる」と答えた。
総理もこれなら、粘り強く理解を求めれば沖縄の人たちもギリギリ受け入れてくれるのではないかと決断した。相変わらず、事務当局は否定的であったが、別ルートで探ったところ、米国からも良い感触が伝えられてきた。ここでも外務官僚をはじめとした官僚、事務当局に頼っていても、何ら交渉が進まないことが証明されたのである。
その後、紆余曲折を経たが、97年12月24日、官邸に来た比嘉名護市長は、「大田知事がどうであろうと私はここで移設を容認する。総理が心より受け入れてくれた普天間の苦しみに応えたい(ここで総理が立礼して御礼)。その代わり私は腹を切る(責任をとって辞任する)。場所は官邸、介錯は家内、遺言状は北部ヤンバルの末広がりの発展だ。」市長の侍の言に、その場にいた総理も野中幹事長代理も泣いていた。
思えば、ことは、国と沖縄県、日米安保体制の下での基地問題ということにとどまらず、本当に総理と知事、市長の、人間対人間の極みまでいった交渉であったといっていいだろう。いや、それを支えた梶山官房長官を含めて、当時の内閣の重鎮二人が心の底からうめき声をあげながら真剣に取り組んだ問題であった。理屈やイデオロギー、立場を超えて本当に人間としてのほとばしり、信頼関係に支えられたと一時信じることができた、そういう取り組みだったのである。
しかし、このような全ての努力にもかかわらず、結論を延ばしに延ばしたあげく、最後に自らの政治的思惑で一方的にこの「極み」の関係を切ったのが大田知事だった。それまでは「県は、地元名護市の意向を尊重する」と言っていたにもかかわらず、名護市長が受け入れた途端に逃げた。当日、同じ時に上京していた知事は、こちらの説得にも名護市長とは会おうともせず、官邸に来て徒に先送りの御託を並べるだけだった。
太田知事にも言い分はあろう。しかし、私は、当時の総理の、次の発言がすべてを物語っているように思える。「大田知事にとっては基地反対と叫んでいる方がよほど心地よかったのだろう。それが思わぬ普天間返還となって、こんどは自分に責任が降りかかってきた。それに堪えきれなかったのだろう。」(続く)
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