96年1月に発足した橋本政権は、前村山政権から困難な課題を二つ、引き継いでいた。一つは「住専問題」、そして、もう一つが、この「沖縄問題」だった。95年秋に起こった海兵隊員による少女暴行事件。それに端を発する沖縄県民の怒り、基地負担軽減、海兵隊の削減等を要求する声は頂点に達していた。
こうした声を受けて、橋本首相は、政権発足早々から、一人、この沖縄問題を真剣に考えていたのである。元々橋本氏は、政治家として昔から沖縄との接点が多い方だったが、夜、公邸に帰ってからも関係書物や資料を読みふけったり、専門家の意見を聞き、思い悩んでいた。
そんな時、旧知の諸井虔氏(元日経連副会長・秩父セメント会長)から私に、「知事を囲む沖縄懇話会というのをやっている。大田氏とは知事に出る時以来の付き合いだから本音の話もできる。知事からも官僚ルートを通さず総理に本音を伝えたいとの希望がある」との話があり、早速、このルートで知事の意向を確かめたところ、「普天間基地の返還を首脳会談での総理の口の端にのせてほしい。そうすれば県民感情は相当やわらぐ」とのことだった。それからは、この大田→諸井→江田→総理というラインができたのである。
しかし、外務、防衛当局、殊に田中均北米局審議官をはじめ外務官僚は、いつもの「事なかれ主義」で、まったく取り合おうとはしなかった。普天間のような戦略的に要衝の地を米軍が返すはずがない、そんなことを政権発足後の初の首脳会談で提起するだけで同盟関係を損なう、という考えだった。あたかも、安全保障の何たるかも知らない総理という烙印を押され馬鹿にされますよ、と言わんばかりの対応だった。したがって、2月24日のサンタモニカでのクリントン大統領との首脳会談での事前の発言要領には、「普天間」という言葉はなかったのである。
この点、最近、この普天間基地の返還がホットイシューになって、「普天間返還の仕掛け人」と田中均氏を持ち上げるマスコミもあるが、とんでもないことがおわかりいただけるだろう。
ただ、橋本総理も、この外務当局の対応を踏まえ、ギリギリまで悩まれた。首脳会談の直前まで決断はしていなかったと思う。しかし、クリントン大統領と会談をしているうちに、米国側の沖縄に対する温かい発言もあって、総理はその場で「普天間基地の返還」を切り出したのである。
絶対返すはずがないと言われていた普天間基地全面返還合意を、96年4月に実現できたのは、すぐれて、この総理のリーダーシップと沖縄に対する真摯な態度、それを背景として、事務方の反対を押し切って「フテンマ」という言葉を出したことだ。会談後、私から「総理、フテンマという聞き慣れない四文字をクリントン大統領の耳に残しただけで、この首脳会談は成功ですよ」と言ったことを今でも覚えている。
この会談を機に、クリントン大統領も真摯な対応をされ、その三日後にペリー国防長官に検討を指示した。ペリー氏(あの黒船のペリーの子孫)も沖縄への赴任経験から沖縄県民の苦渋、思い、実情を十分理解し、軍との調整等大変な努力をされた。副大統領経験者の大物・モンデール駐日大使(当時)も含め、日米の首脳レベルの連携プレイが見事にワークした事例だったのである。この交渉が極めて異例な首相主導であったことは、担当の外務大臣、防衛庁長官にすら、交渉そのものが知らされていなかったことに象徴されている。
96年4月12日、官邸での記者会見で「返還合意」を発表したあと、夜、公邸に戻り、思わず総理と抱き合い喜びあったことを今でも覚えている。その時は大田沖縄県知事も「総理の非常な決意で実現していただいだ。全面協力する」との声明を出したのである(次週に続く)。
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