日銀総裁人事・・・財政と金融の分離を貫け!
2008年2月11日 tag: 日銀総裁
3月の日銀総裁任期切れを迎え、国会では、その後任人事が国政の一つの焦点となってきた。この問題については総理秘書官時代、深く関わったので、この際、私の所見を明らかにしておきたい。
当時(97年~98年)、私が橋本首相の指示を受けてすすめたのが大蔵省の分割、すなわち、大蔵省から金融行政を分離することだった。ご承知のように、それまでの金融行政は「護送船団方式」と称され、大蔵省が金融機関を許認可でガチガチに縛り、その箸の上げ下ろしまでに口を出していたのである。
金融を知らず、いや、「宿帳方式」の予算案しか作ったことがなく、貸借対照表も読めない主計官僚が幅をきかす大蔵省において、その主流からはずれた人間がたまたま人事の都合で銀行局や証券局に配属されてくる。その何も知らない官僚に、金融機関側も「MOF担」(大蔵省担当の職員)をつけ、金融のABCを官僚に教え、また、官僚を接待し、その許認可情報の一端でも探ろう、その差配で自社に有利に運ぼうとしていた時代だった。
本来専門知識性が高度に要求される金融当局が、その実態を備えず、金融機関の方も、ひたすらMOF担として大蔵官僚への接待技術にたけた人間が役員にのぼりつめる。こうした日本の「金融界」が、「失われた10年」と言わずとも、世界から取り残され、没落の途をたどったことも至極当然の帰結だったと言えよう。
そこで橋本内閣では、中央省庁再編の一環として、大蔵省から金融行政を分離し金融庁とし、そこに専任の大臣を置くとともに、「大蔵省」の名前も「財務省」に変更した。並行して断行した「金融ビッグバン」と相まって、政府として「護送船団行政」からの決別を宣言したのである。と同時に、日本銀行についても、大蔵官僚への過剰接待事件の反省と、この「財政と金融の分離」の原則に照らし、その幹部から大蔵省出身者を一掃した。
今回の日銀総裁人事を考えるにあたっても、これらの経緯をしっかり踏まえないと正しい判断はできない。
さて、肝心の人事だ。現在、最有力候補とされている現日銀副総裁の武藤氏については、あの「ノーパンしゃぶしゃぶ」に象徴される「大蔵・金融スキャンダル」の時、その綱紀粛正を担当する大蔵省官房長の要職にあった。
98年初頭、大蔵省という超エリート官庁に東京地検特捜部の手が入り、キャリア官僚(補佐クラス)や金融検査を担当するノンキャリア官僚が逮捕された。当時も「とかげのシッポ切り」と言われたが、上層部・大物幹部で将来次官間違いなしといわれた官僚たちは、逮捕寸前といわれながら、続々と大蔵省を去っていったのである。
そして、一人残った「大物」が武藤氏だった。ただ、彼は責任をとって「降格」され、異例の官房審議官に格下げされた。
本来、一番の責任者は省内綱紀担当の武藤氏だった。しかも、当時の予算委員会で、省内調査の全責任を負う官房長として「もうこれ以上不祥事はありません」と断言しながら、その後、新たな不祥事が続出したという、国会で「虚偽の答弁をした」という責任もある。
本来、他の「大物官僚」とともに引責辞任すべきであったが、省内での事後収拾策を負わせるという暫定的な趣旨で、異例の残留、降格人事にしたのである。逮捕された官僚が起訴され、省内の綱紀粛正策を軌道にのせた後、しかるべき「けじめ」をつけるということだった。
しかし、その後、橋本政権が終わり(98年7月)、「親大蔵・財務政権」が続く中で、「人の噂も75日」、何事もなかったように、大蔵事務次官にまでのぼりつめ、そして、橋本政権時、日銀幹部から大蔵OBが一掃されたにもかかわらず、小泉政権下で副総裁に登用されたのである。
今の世の中は、政治家も官僚も責任をとらないという、ゆゆしき風潮が醸成されている。それを絵に描いたように実践してきたのが武藤氏なのである。これでは、大人の背中をみて育つ子供の教育にも良いわけがない。
「財政と金融の分離」の原則とあいまち、また、この数年間の金融行政を良しとしないのであれば尚更、その福井総裁を支えてきた武藤氏が適任とは言えないであろう。その福井氏も、思えば、日銀接待スキャンダルの責任者として日銀を追われ、後に「村上ファンド」で私腹をこやしていた人間であった。一体「社会的正義」というものは、この日本でどこにいってしまったのだろうか。
※「シリーズ/地球環境問題を考える」は今週はお休みします。
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