大乱の年に新しい旗印を!・・・ (1) 一刻も早い解散総選挙をのぞむ
2008年1月 7日 tag:
今年は「大乱」の年だ。しかし、一時的に混乱しても将来的にはこの国のためになったという年に是非したい。そして、その起爆剤が解散総選挙となる。
その意味で、一刻も早く解散総選挙が行われるべきだ。安倍、福田政権と国民に信を問うてない政権が続いていることもある。民意と言えば、直近の参院選で惨敗した政党が政権与党を構成していることもある。前回の総選挙が「郵政民営化」一点を問う「小泉郵政解散」であったという特殊事情もある。
そして、総選挙のあとには必ず政界再編が起こる。それは自民・民主の枠組みを超えた合従連衡となろう。それはこの国の政治にとって望ましいことなのだ。なぜなら、今の政治の最大の問題点は、「衆参のねじれ」ではなく「政党のねじれ」だからだ。
臨時国会では「衆参のねじれ」が問題とされながらも、意外に成果をあげてきた。与野党の歩み寄りにより、改正被災者生活再建支援法、最低賃金法改正案、政治資金規正法改正、放送法改正等20本以上の法律が成立した。もちろん、テロ特措法等の与野党対立案件をめぐる抗争は激化したが、これら基本政策で争うことは、政党政治を是認する以上、何もおかしいことではない。
むしろ、よく指摘されるように、その基本政策ですら、同じ政党内で「考え方が違う」「寄り合い所帯」であることの方こそが問題なのだ。私が、今の政党政治の現状を憂い、一貫して訴えてきたのもこの点だし、なぜ私が無所属なのかという所以でもある。
小泉郵政解散がその象徴だった。総理総裁になったら、この「郵政民営化」だけはやり遂げたいという人をトップに選んでおきながら、いざ法案が通ろうかとなると足元の自民党から造反者が続出して葬り去られる。そして、700億円以上かけて解散総選挙を打たなければ、その一法案すら通らない。これを「政党政治の破たん」と言わずして何と言おう。
さらに最近では、小沢代表が憲法違反と断ずる「インド洋上での給油活動」を、同じ民主党の政治家が「あれは個人的見解」といって堂々と否定する。これでは、累次にわたって公党の代表が公の場で発言していることと、党の正式見解とが違うということで、国民としてはどちらを信用していいかわからなくなる。ある事象や行為が「憲法違反かどうか」が些末なことだとは到底思えない。まさに「公党(政党)の体をなしていない」と批判されてもやむをえないだろう。
事ほど左様に「政党」あるいは「政党間」の「ねじれ」こそが日本を不幸にしているのだ。私が、今の政党政治は「頭と胴体と手足が別々の方向に動く動物」と同じで、一歩も前に進めないと言ってきた理由でもある。
このような「閉塞感」は、実は、自民党、民主党所属議員が一番日々感じていることだ。テレビに出てきて、平気で自分が所属する政党の政策を批判してみせるのもその「裏返し」だろう。しかし、好き勝手なことを言いたいなら「私のように党を出てからにしろ」「それだけのリスクをとれ」と言いたい。選挙の時だけは政党の看板を使わせてもらいながら、それが終われば自分だけ「お利口さん」になる。少なくとも政党人、組織人のとるべき行動ではない。
しかし、このような「閉塞感」が原動力となり、選挙後、自民も民主も単独で過半数をとれないという事態になると、早速、大連立、分裂を含む合従連衡、政界再編が始まる。思えば、昨年秋の大連立騒ぎの本当の意図は、自民、民主大連立のあとの、理念、政策軸による分党→政界再編→「真の意味での二大政党制」の確立であった。これは、97年の保保連合騒ぎ、その一年半後の自自連立、保守新党の画策と流れてきた小沢流の政界再編術の一環だった。
これに新しい政治の波が加わる。次の総選挙に向けて着々と準備を進めている勢力もある。不肖、私もその一員だ。自民、民主の枠組みにとらわれない、新しい国民本位の旗印を立てることで、自民、民主に飽き足らない、かといって共産や社民、国民新党ではないだろうという、大勢の有権者の受け皿となる。この真の意味での第三極が、うまく今の政党政治のねじれを解消し、理念・政策軸で政界を再編していく「触媒」となることが期待されている。 (続く)
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