憲法改正を考える・・・国民投票法成立
2007年5月21日 tag:
憲法改正も、その手続法たる国民投票法の整備も行うべきと私も考えるが、安倍首相が言うように「参院選の争点にする」「政権の最重要課題だ」とすることには違和感を持つ。今の国政の現状からすると優先順位は低く、そこに莫大な政治的エネルギーが費やされることを、むしろ懸念する。年金や医療、教育や地域経済といった国民生活の課題を優先すべきであろう。
その上で、私の憲法改正への考え方を述べれば、環境権やプライバシー権等の新しい権利を盛り込み、私学助成の禁止等すでに実態からかけ離れた規定を改め、翻訳言葉の条文を美しい日本語にする等を内容とした改正を行うべき、というものだ。
肝心の憲法9条については、戦争放棄等を定めた一項は堅持し、二項では、日本の国土や国民の生命・財産はしっかりと守るという立場から、自衛権や自衛隊の存在を明確に位置づけた方が良い。ただし、私は、将来的に米軍とともに海外で武力行使する途を拓く可能性のある集団的自衛権の行使には反対だ。
なんだかんだ言っても、戦後、日本が曲がりなりにも平和裡に暮らして来れたのは、集団的自衛権は行使しない、海外での武力行使はしないという政府解釈、9条の歯止めが大きかったからだ。政府部内にいても、湾岸戦争の時、周辺事態法の策定時等で、この解釈に時には歯がゆさを感じたこともあったが、時々の政権の判断に大きな影響を及ぼしてきたことは、ここで証言する。一部に、日本が平和だったのは、日米安保条約の「核の傘」であり、9条は関係ないとする論があるが、実態を知らない議論だ。
この点につき、自民党憲法草案では、集団的自衛権を当然国が有する権利(自然権)と位置づけ、憲法上は何もふれないとしている。しかし、こうした考え方は、憲法が公権力を縛る規範だという基本を忘れている。憲法ではなく、法律や時の政権の判断に任せれば良いというのは危険な考え方で、それはイラク戦争における米国追随の日本の姿をみれば一目瞭然であろう。
私も若手官僚の頃は「集団的自衛権認めるべし」だった。それが変わったのは官邸での長年の経験からだ。権力の中枢たる官邸の危機管理能力や自衛隊のオペレーション能力のレベル、その危うさ、振幅が激しい世論やメディアスクラムの現状等に鑑みると、とても集団的自衛権を認めた上で歯止めをといった、頭の中だけで考えた議論が通じないことを思い知らされた。
そもそも、なぜ海外へ自衛隊を派遣しなければならないのか。それは、その人的貢献、国際貢献を通じて諸国民との友好関係を深め、結果、日本や日本国民が平和裡に暮らしていけるためだ。それなのに、集団的自衛権を認め、米軍とともに国際紛争を解決するために武力行使まで行うようになれば、結局、日本人も、世界の警察官たる米国人と同じように、常に戦争やテロと向き合う国民になりかねない。本末転倒なのだ。
今、安部首相が有識者懇談会を設けてまで検討するとしている「集団的自衛権の範囲」についても 現状で行使できずに不都合とされるケースは、私の立場からも、実は個別的自衛権の範疇と認められる場合が多い。
例えば米国に向かうミサイルを日本上空で撃ち落とすのは、いやしくも日本の領土の上を通過し、ミサイルの能力、精度等からも、現実に日本への危険が迫っているとも言えるのだから、個別的自衛権の行使として説明できる(ただし現在、日本は撃ち落とせるミサイルを持っていないので机上の空論)。自衛艦船と並走中の米艦船が攻撃を受けた際の反撃についても、瞬時にどちらへの攻撃か分からない以上、自衛艦船、すなわち日本への急迫不正の侵害のおそれと認定すれば同様だ。
その上で、私は、国連の集団安全保障、すなわち国連決議(国際社会の総意)の枠組みの中で、国際紛争の解決等に協力を求められた場合は、自衛隊派遣も含めて積極的に貢献すべきと考える。そして、こうした趣旨も9条に書き込むべきである。
憲法前文にあるように、日本が国際社会で名誉ある地位を占めたいと思うなら、今さら集団的自衛権の行使を認め、他の190カ国のような「普通の国」になっても評価されない。それよりも、国連憲章の描く理想に近い、希有の憲法を持っていることに、もっと誇りをもった方が良い。
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