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江田けんじ 衆議院議員 神奈川8区選出(横浜市青葉区・緑区・都筑区)

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エリツィン氏逝去に何もしない日本・・・(下)最も解決に近づいた日

2007年5月14日  tag:

 思えば、私が総理秘書官として仕えた橋本政権時代、「ロン・ヤス」に匹敵する「ボリス・リュウ」の関係で、モスクワと東京の中間地点、クラスノヤルスクで首脳会談が行われ、「2000年までに北方領土問題を解決して平和条約を締結する」という合意が交わされた。

 この時が、今振り返れば、日ソ、日露、数十年の歴史の中で、最も領土問題の解決に近づいた時点だっただろう。

 ドイツのコール元首相の仲立ちで始まった両者の関係だったが、エリツィン氏は「ハシモトは話せる奴、できる奴」とロシア国内で意図的に発信し、橋本氏も「対ロ3原則(信頼・相互利益・長期的な視点)」や「ユーラシア外交」というメッセージを打ち出し、それに応えた。

 そして、1997年11月のクラスノヤルスク会談が、そのお互いのボルテージが最高潮に達した時、開催されたのである。その時、会議冒頭から、「領土問題を解決したい」といきなり切り出してきたのは、エリツィン大統領の方だった。

 それまでの日露関係では、日本側が散々領土問題を提起し、会談の最終局面になってやっと、ロシア側が渋々、その話題にのってくるというのが常だった。我々も当時、そのような成り行きを想定していたのだが、驚くべきことに、イエニセイ側の川下りの船の中で、むしろロシア側が提案してきたのである。当時のロシアに、経済の困窮や政情不安という背景事情はあったにせよ、エリツィン氏の並々ならぬ日露関係の改善意欲が感じられた。

 当時のエリツィン氏が「私ははじめて公選で選ばれた大統領だ。私が決断すれば何でもできる」と言っていたのが、印象深く私の脳裡に残っている。

 それを受けて翌年4月、エリツィン氏と橋本氏は静岡県伊東市の川奈ホテルで再会談した。今でも国家機密扱いになっているのでここでは明かせないが、その時の「橋本提案」に対して、エリツィン氏は「楽観的な期待をもっている」と応じた。そして、いよいよ、その年の秋の橋本正式訪ロ、次の年の露側訪日という道筋の中で、北方領土問題の前進を図る工程表が作られたのである。

 しかし、この夢は結局「見果てぬ夢」に終わった。首脳外交の良い面でもあり悪い面でもあるのだが、続々と主役を張った役者が表舞台から退場したからである。

 橋本氏は、その年の夏の参院選惨敗の責任をとり退陣した。政権に恋々とする気持ちは更々なかったが、当時、唯一の心残りが、この日露関係であった。、さらに、仲介の労をとったコール氏も秋には政権を去り、当のエリツィン氏も翌年末には退陣した。小渕、森両首相はそれなりに頑張ったが、橋本・エリツィン時代のようなモーメンタムが再び蘇ることはなかった。

 そして今、北方領土問題解決の糸口さえ見えない。当時とは隔世の感がある。外交に「たら」「れば」はないが、もし、もう少し橋本政権が継続し、エリツィン前大統領も体調が悪化せず政権が続いていれば、少しは違う展開になっていたかもしれない。

 川奈では今でも、エリツィン氏来日を記念して植樹された桜が、毎春、美しく咲くという。しかし、そこを舞台に丁々発止の首脳外交を展開した当事者は、もうこの世にはいない。心からご冥福をお祈りしたい。

エリツィン氏逝去に何もしない日本・・・(上)冷え切る日露関係
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