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江田けんじ 衆議院議員 神奈川8区選出(横浜市青葉区・緑区・都筑区)

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教育再生は大学入試から

2006年10月30日  tag:

 全国の高校で、必修科目の履修不足が発覚した。生徒の救済策を考えるのも必要だが、なぜ、こうした問題が起こらざるを得なかったのか、根源にさかのぼって考える必要がある。

 問題は、学習指導要領で必修(例えば世界史)とされながら、大学受験に必要なしとされ、確信犯的にその教科を他の受験必須科目に振り替え、あるいは、他の教科をもって当該教科を履修したと偽装していた点だ。直接的には、学校、教師、教育委員会の責任だが、彼らに、そうさせた社会的状況にも思いを致す必要がある。

 「世は受験戦争」であり、基本的にはここ数十年事情は変わっていない。ここ横浜市でも、駅前の通りを数十メートル歩くたびに大小入り乱れて学習塾の看板が掲げられ、夜遅く帰宅する塾帰りの小学生の姿を見るのは日常茶飯事だ。新聞や雑誌にも一流進学校や一流大学に何人合格したかを誇る広告があふれている。「良い大学に入れて良い就職を」は、いつの時代も子を持つ親の心情であり、一概に非難されるべきではない。

 いや、そうした心情は、いくら「学歴社会は終わった」「ソニーはもう随分前から入社試験に大学名の記述をなくした」「これからの世の中は学歴より手に職を持つこと」「国際社会の荒波に勝ち抜くためには知識より独創性や個性」と強調したところで、当面、ビクともしないだろう。

 そうなら、大学入試自体を抜本的に改めるしかないのではないか。いくらでも理想論はあろう。教育論も百家争鳴だ。教育委員会の強化も教員免許の更新制も学校の外部評価もいいだろう。しかし、本当に教育現場を変えようというなら、現実問題として、大学入試から、高校、中学、小学校と、水が地表から地中に浸み通るように変えていくしかないのではないか。

 学校英語の例をあげるまでもない。我々世代は、十年近く学校英語教育を受けてきて「話せない、聞けない」使えない英語を学ばされてきた。それは文法、作文重視の大学入試が原因だった。それが入試にリスニングが導入されるだけで随分変わってきたことからもわかる。スピーキングまで導入されれば「使える英語」に近づいていくことだろう。

 私は、今後、日本人が国際社会の荒波に勝ち抜いていくためには、知識偏重の「詰め込み教育」では絶対にだめだと思っている。また、学歴が通用する世界でもないことは言うまでもない。なぜなら、世界はそういうルールで競争をし、人物を評価していないからだ。

 「ゆとり教育」があまりに教科書を簡素化し、本当に必要最低限の基礎教育をないがしろにした面も私は否定しない。足らざる部分は改善していけばいい。ただ、一番の問題は、私は、そのやり方にあったと思っている。その象徴的科目である「総合学習」も、それを教える教師に明確な問題意識もなく、その指針を示すべき文部科学省にもとまどいながらの導入という後遺症があった。しかし、生徒が介護の現場を学び、自然に親しむ機会を与えられるのは正しい方向である。現場からは「総合学習」時の生徒の感想、意見が一番多かったという声が寄せられている。

要は、「総合学習」でも「社会奉仕(ボランチィア)活動」でも、それを大学の入学選考で正しく評価してやることだ。基礎学力というが、円周率は「3」で良い。私ももちろん円周率が「3.14」であることを学んだが、実社会に出てこの方、「3.14」の円周率なぞ使ったことはない。「3.14」ではなく「3」程度の基礎学力はしっかりつけながら、個性や独創性、感受性を伸ばす教育を行い、それを大学がちゃんと評価する。そうしたシステムにしないと、日本人の「地頭」はどんどん悪くなっていくだろう。

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