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江田けんじ 衆議院議員 神奈川8区選出(横浜市青葉区・緑区・都筑区)

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『戦争への道は歩まない(下)』・・・8/15の誓い

2006年9月 4日  tag:

 そして加えて「世論の未成熟さ」「脆弱さ」だ。日本の場合、マスコミもそうだが、ある獲物(対象)が出てきたらピラニアのように群がり、散々食い尽くした後は何事もなかったかのようにどこかに去ってしまう。「熱しやすく冷めやすく」、関心や興味が長続きしないし、それだけ物事の本質をゆっくりと見ようともしない。一旦ある方向に振れると一気に振り抜け、元に戻ってこない。

 私はよく、日本の世論は「塑性(そせい)変形」だと言っている。物理学の用語で、「弾性変形」は時間がたつと元の形に戻るが、「塑性変形」は一旦変形すると元に戻らない。
 米国では、例えば、当初、イラク戦争への賛成は圧倒的で、それに唯一人反対した黒人女性議員へはありとあらゆる誹謗中傷がなされたものだ。しかし、今では、60%以上の国民がイラク戦争は間違いだったと総括している。米国では「振れすぎた振り子」は必ず元に戻るのである。しかし、日本ではそうはならない。まだまだ民主主義が成熟していない証拠だ。

 私は、このような「政府の危機管理レベルの低さ」と「世論の脆弱さ」から、この国は戦前、「戦争への道」を歩んだ時と比べてさして進歩していないと痛感した。こうした状況で「集団的自衛権」の行使(注)を認め、米国とともに世界の津々浦々まで自衛隊を派遣することが如何に危険なことかを体感的に察知した。とても、「集団的自衛権」の行使を認めた上で、現実には時々の国際情勢等を勘案して抑制的に行使するだとか、そんな「自制」や「コントロール」が効く国ではないと思った。

 首相の靖国参拝でも、外国からとやかく言われるまでもなく、どうしてあの300万人以上の同胞を死に追いやった戦争指導者、為政者の責任を、日本人が自らの問題としてとらえ、自分なりに総括できないのか。過去へのしっかりとした反省なくして未来はないし、相手を思いやる心と謙虚な姿勢は、対人関係でも不可欠の要素であり、それは国同士の関係でも基本的に変わりはない。決して「自虐史観」に基づくものでも何でもないのだ。

 この関連で「極東国際軍事裁判」を、今更問題にしようとする自民党国会議員もいる。特に、先の選挙で大量に当選してきた「小泉チルドレン」の中に多い。私もこの裁判に問題があることは認めるが、それを受け入れて国際社会に復帰した以上、今更問題にするのは「負け犬の遠吠え」でしかないと思っている。それでも問題にしたいと言うなら、米国大統領の前で堂々と主張したらいい。その結果がどうなるか。何も責任をとらない評論家や学者が何を言っても勝手だが、まともな政治家が言うべきことではない。

 必要以上に対外的な敵愾心をあおり、偏狭なナショナリズムを昂揚させようと意図した論調が最近とみに多くなってきた。煽ることは簡単だが、一旦火のついたナショナリズムをコントロールすることは難しい。首相官邸や政治家、官僚にその力がないことは私の経験からも断言できる。為政者は常にこのことに思いを致していなければならない。

 このような諸々の思考や経験が、私を「ハト派」に宗旨替えさせた。私は残りの人生、政治家としての使命を、大げさかもしれないが、この国を「二度と戦争への道を歩ませない」ことに捧げようと思っている。時あたかも「自民党タカ派政権」が続いている。政権の中枢にいた者としての体感温度を大切に、それを是非、皆さんにも伝えていきたい。

(注)「集団的自衛権」の行使
 その本来の意味は、例えば、日本の同盟国である米国がキューバから攻撃された場合、日本が攻撃されていないのにもかかわらず、自衛隊をカリブ海まで派遣し、米軍とともに戦うことをいう。これが「集団的自衛権」のコアーな部分である。
 ただ、マスコミ等で散見される政治家や識者の議論は、その定義を明確にすることなく、「友人が喧嘩を売られているのに見て見ぬ振りをして良いのか」といった情緒的な議論に始まり、北朝鮮が米国に向けて弾道ミサイルを発射し、それが日本上空を飛んだ場合、それを撃ち落とすのが「集団的自衛権」の行使に当たるか、あるいは、朝鮮半島や中台海峡において危機が発生し米軍が出動した場合、それへの自衛隊派遣はどう考えるか、といった「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の間の、マージナル(限界的)な事例が多いように見受けられる。

『戦争への道は歩まない(中)』・・・8/15の誓い
『自民党に人材はいないのか!?』・・・自民党総裁選