福井さん、『恥の文化』をご存じですか?
2006年7月17日 tag:
日銀が「ゼロ金利」を解除した。福井総裁が「恥」を知るなら、これを機会に潔く身を引くべきである。
ただ、この村上ファンドへの出資に端を発する日銀総裁の責任問題については、任命責任のある小泉首相ら政府関係者はともかく、財界人の中にも擁護する声がある。しかし、その人たちに言いたいのは「一度ならず二度までも基本的資質の欠如を露呈した人間に、引き続き日銀総裁という要職を預けなければならないほど、この日本には人材が払底しているのですか」ということだ。
一度目は、罪悪感もなく、利害関係者たる銀行や証券会社から「飲めや歌え」の、またここでは言えないような破廉恥な過剰接待を受けていた前科だ。当時、東京地検特捜部は、日銀キャリア課長一人を「一罰百戒」の意味を込めて逮捕・起訴したが、同時に、そのような風潮、慣習を当たり前のようにとらえ、金融政策の公正性への神経が麻痺していた日銀プロパーキャリア職員、その最高位のポストにあった福井副総裁に、そういう組織文化を醸成した責任を問い「クビ」にしたのである。当時、私は総理秘書官として官邸におり、当事者の一人だった。
そして今回は、裁判に例えるなら、判事が、その受け持っている裁判の被告人と密かにプライベートで付き合っていたというに等しい。これでは裁判の公正を担保することができないことは明らかで、その場合、その裁判官は「忌避」される。事は「金融の番人」とて同じことだ。
私も、福井氏が民間人当時(富士通総研理事長)、村上ファンドへ出資していたことまで問題にしようとは思わない。しかし、総裁に就任すると同時にすべてを清算すべきことは、いわば「常識」に属することだ。服務規律に書いていなかったのは当然のことだったからで、それはあたかも「人を殺してはいけない」とわざわざ内規に書かないのと同じことだ。それができない、いや、気づいてもあえてしなかった感覚の人間に、金融政策の公正性が期待できるわけもない。
後に村上氏が逮捕される事態に及んだことは、事の本質とは関係ない。情状が一等重くなるだけだ。一千万円という額の多寡も関係ない。その結果どれだけの利益をあげたかも核心ではない。得た利益を仮に慈善事業に寄付しても責任から逃れられるわけでもない。言わずもがなだが、「金融の番人」が、すなわち、金利や資金調整の金融政策を通じて景気や株価を左右する張本人が、「投資ファンド」や「株」という、まさにその先行きの読みによって多額のリターンを期待する「金儲け手段」に、絶対に手を出してはいけないと言っているのだ。「究極のインサイダー」と言わざるを得ない。
こういう資質についての「前科」がありながら、そうした経緯を不問に付し再登用した小泉首相の責任も重い。ただ、それを受ける方も受ける方だ。どうやら福井氏は、日本古来の「恥の文化」というものをご存じないようだ。ちなみに、現在の日銀副総裁も、同じく過剰接待スキャンダルで大蔵省官房長の職を追われた武藤元大蔵次官(注)である。まさに「官僚は責任をとらない」を地でいっているような人たちなのである。
その風潮は、小泉政権になって加速され、何をやっても言っても、もう誰も責任をとらなくなった。
注)大蔵スキャンダル
私が首相官邸にいた97年~98年にかけて、大蔵省への過剰接待スキャンダルの嵐が吹き荒れた。戦後初めて東京地検特捜部が大蔵本省に家宅捜索に入り、キャリア官僚が一人、ノンキャリア官僚が数人逮捕された。将来事務次官になると思われていたキャリア官僚も続々辞めざるを得ない事態にまで追い込まれた。
その時、綱紀粛正の責任者だったのが当時官房長の武藤氏で、予算委員会で「省内調査をした結果、もうこれ以上問題案件はありません」と答弁しながら、その後も続々スキャンダルが明るみにでるといったお粗末さだった。
武藤氏はその責任をとって、異例ながら官房長から官房審議官に降格されたが、それは一時的逃避にすぎず、その後「喉元過ぎれば何とやら」順調に出世し、官僚の最高峰、事務次官にまで登りつめた。そして、今や日銀副総裁で次期総裁確実と言われる。
こういう人間を絶対に報いてはならない。そして、それは政治の責任である。
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