親父の死・・・その背中を見て育つ
2006年6月26日 tag:
父は岡山県警の刑事だった。派出所勤務を振り出しに、叩き上げて署長まで出世した。殺人事件や暴力団抗争の捜査にあたっていたので、朝から晩まで働きづめで、休日もろくにとれないありさまだった。だから、家族旅行に一緒に行ったこともなければ、運動会や授業参観に父親が来たという記憶もない。
家も狭隘で老朽化した官舎住まいで、幼少期には風呂も自宅になく、近所に借りにいくこともままあった。決して裕福ではない家計を支えるために、母はパートや内職で小銭を稼いだ。そうした中で私と弟は、なるべく両親に迷惑をかけないで生きていく術というものを、自然に身に着けていった。二人とも、塾にも行かず、大学まで公立一筋だったのは、金銭面で両親に負担をかけたくなかったからだ。
外では強面の刑事であっても、私にとっては、とても優しい父親だった。「勉強しろ」など小言の類を言ったことがなく、たまの休日は日暮れまでキャッチボールの相手をしてくれた。早く帰宅した時は、テレビで一緒にナイター観戦。父は同郷(岡山)の秋山登、土井淳バッテリーのいる大洋ホエールズ(現・横浜ベイスターズ)を応援しており、私も物心ついた頃から熱狂的な大洋ファンだった。岡山県出身の私が衆院神奈川8区(横浜市青葉区・緑区)から選挙に出たのも不思議な縁を感じる。
温和な父を、私は一度だけ怒らせてしまったことがある。小学校2年生の時、宿題をやりたくないと私は母に駄々をこねていた。すると、傍らで聞いていた父が突然、「そんならもう勉強せんでえー」と怒鳴って、宿題帳を引き裂いてしまった。父の怒った姿を見たのははじめてのことだったと思う。私はしばらく自室でベソをかいた。やがて、私は謝ろうと居間に戻ると、父は引き裂いた宿題帳をセロハンテープで懸命に直していた。父の後ろ姿はやけに物悲しく、今思えば、私を叱ったことを悔いていたのだろう。その時、私は一生懸命に勉強しようと心に誓った。もう父を二度と怒らせてはいけないと、子供心に反省したものだ。
農家の次男坊でスポーツ万能、筋肉質で屈強な体の持ち主だった父が、最初のリンパ腺ガンに侵されたのが55歳の時だった。良性の腫瘍ということで手術するはずだった父を救ったのが当時医学生の弟。大学病院で再検査して悪性リンパ腫と判明し抗ガン剤治療に切り替えた。その後、小康状態を保ち完治と思った矢先に、今度は転移ではない原発性の肺ガンが、しかも二度にわたって父を襲う。しかし、この、五年以内再発で絶望といわれる「最も危険な病」にも打ち克ち、二度に亘る手術の後、驚異的な回復を見せ、好きなゴルフができるほどにもなった。
しかし、二十年を超える、このガンとの闘病に、「生き抜く」という不屈の意志で立ち向かってきた父も、ついに三度目の原発性の肺ガンに力尽きた。人前では決して「苦しい」と言わなかった父も、今回ばかりは抗がん剤による極度の心身消耗と呼吸困難に「もう死にたい」と漏らした。
直接の死因は、ガンのため閉塞した肺と、筋肉の衰えで嚥下(えんか)すら困難な結果、多量の痰がからんだ呼吸不全と心肺停止。そしてそれは突然やってきた。唯一の救いは、肺ガン死では考えられない、本当に穏やかな、笑みさえ浮かべているようにもみえる死に顔だった。
成長し社会人になった私は、必ずしも父に優しかったわけではない。18歳で上京し離ればなれの生活も続き、たまに会っても性格や考え方の違いから、父に冷たくあたることもあった。今にして思えば、慰めは、二人の孫の顔を父に見せられたことと、昨年の当選だった。
享年79。親父!よく頑張ったね。そして、長い間ありがとう!
(亡父・芳昭の葬儀に当たりましては、大勢の方々から、過分なご厚情、ご弔慰をいただきました。心より御礼申し上げます。)
Copyright(C) Kenji Eda All Rights Reserved.