集団的自衛権は認めない・・・自民党憲法改正素案
2005年10月31日 tag:
与野党で憲法改正論議が盛んである。しかし、政治日程に具体的に上るのはまだまだ先のことだろう。だから、ああだこうだとあまり細かいことを議論しても仕方ない。ただ、安全保障の根幹に係わることは、今から国民的コンセンサスを得ておいた方が良い。
私は、日本の国土を守る、国民の生命・財産を守るための「個別的自衛権」については、日米安保条約を含め、十全を期すべきという立場だ。自衛隊は実際には軍隊だし、それが今の憲法9条の文言解釈からは違憲である以上、現実を見すえて、憲法上、自衛軍として認知した方が良い。さらに、ミサイル防衛や、我が国に危害が及ぶ可能性のある時に、米軍が「周辺事態法」に基づき「防衛出動」してくれる場合の自衛隊の後方支援も当たり前の話だ。現下の北朝鮮の核・ミサイル開発の状況に鑑みれば、尚更、その感を強くする。
しかし、「集団的自衛権」を認めることには反対である。「集団的自衛権」とは、「自国が攻撃されていないのに、同盟関係にある他国が攻撃された場合、その国とともに武力を行使する権利」のことだ。よく「友人が喧嘩を売られているのに助けないで良いのか」という問題提起がされる。そう言われれば、何となく「いやあ、みすみす見て見ぬ振りをするよりも、やはり助っ人でいくのが人間の道」という声も聞こえてきそうである。
しかし、これを世界に当てはめれば、「集団的自衛権」行使の典型的事例は、米国がキューバから攻撃された時に、自衛隊をカリブ海まで派遣して米軍とともにキューバ軍と戦うということだ。論者は、それだけの覚悟と準備が、今の日本国民にあるとでも言うのだろうか。日本は米国と同盟を結んでいる以上、米国が「世界の警察官」として武力行使をすれば、自衛隊はその米軍に追随して、地球の津々浦々まで戦争のために駆り出されることを意味する。
それでこそ「普通の国」という意見もあるだろう。しかし、それは取りも直さず、米国民と同じように、日本国民が日常的に「戦争やテロ」と向き合う国民となることを意味する。現実、米国民は、プライベートな海外旅行でもそうした危険と隣り合わせだ。そうした危険に、日本国民を曝してはいけない。
そもそも何故自衛隊の海外派遣をするのか。それは「国際貢献」のためであろう。ここまでは良い。しかし、なぜ「国際貢献」が必要なのか。それは、諸国民の信頼と尊敬を得て、日本及び日本人が国際社会において平和理に存することを保障するためだ。「集団的自衛権」行使を認めて、逆に日本及び日本人を危険に曝すのでは、本末転倒というべきなのである。
小泉政権になって、テロ特措法といいイラク特措法といい、米国が「自衛戦争」と堂々と宣言する戦争に、日本は兵站業務、人道復興支援とは言え、協力してきた。これは、国民への明確な説明責任を果たさぬままに、実際上、憲法が禁じた「集団的自衛権」に踏み込むものだ。意図的かどうか別として、なし崩し的に「集団的自衛権」行使の実績を積むことだ。
私は何も旧社会党でも共産党でもない。総理秘書官時代には、「新しい日米安保宣言」や「周辺事態法」の策定にも主体的に参画した。その立場からしても、今の政権の安全保障政策は、これまでの自民党政権の相場さえ、大きく踏み外しているのである。
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