古川元副官房長官のご逝去に寄せて
2022年9月17日 tag:
昨日、増上寺で行われた故古川貞二郎氏(元官房副長官)のお別れの会に行ってきました。故人のご人徳のなせるものでしょう、大勢の弔問客が列をなしていました。
誰かに弔意を表すということは、そのやり方も含め、すぐれて個人の内心の自由に係わることであると私は思っています。
安倍元首相の国葬についても、私はこうした政治的意図をもった葬儀に、一政治家として政治的立場を表明はしていますが、他人がどう対応するといったことに、これまで言及したことはありません。
しかし、メディアやSNSの世界では、国葬賛成の立場、反対の立場にかかわらず、個々の他人の立場やその表明の仕方にいたるまで、言及している方を多く見受けられます。私にはあまり好ましいこととは思われません。ただ、まあ、その元をつくったのは岸田首相その人ですがね。
故古川貞二郎元官房副長官(事務)。皆さんにとってはなじみのないポストですが、実は官邸ではとても重要な役割を果たしている「霞ヶ関のドン」(官僚機構のまさしくトップ)なのです。
古川氏は5人の首相に仕えられましたが、私が首相秘書官を務めた橋本内閣でも、特に沖縄の普天間飛行場の返還とその移設先の問題で、沖縄県知事、副知事と難しい交渉を担っていただきました。
実に温厚なお人柄で「官僚の矩を越えず、ただ、官僚としての矜持は失わない」、本当に立派な尊敬できる方でした。
ただ、その古川さんが、一度だけ激怒したことがあります。時は97年12月24日、首相執務室でのことです。
それまで辺野古沖への移設は地元名護市長の意向を尊重すると言っていた太田沖縄県知事が、当の市長が受入れを表明すると前言をひるがえし、新たに調査委員会を設けて検討すると、知事側近も知らない案を持ち出してきた時です。
日頃、大きな声も出さない古川氏が突然、首相や我々の前で「場(委員会)を作ることがかえって解決を難しくするということを私は体験してきた。先送り、格好をつけるだけの委員会だ!名護市長が命をかけてやるというなら、知事としてサポートするというのが筋でしょう!」と。
太田知事にも、もちろん言い分はあるでしょう。ただ、その激高振りにその場にいた皆が驚いたように、それが、それまでずっと沖縄県との話し合いを続けてきた古川氏の「心の声」だったのです。
この時が、政府と沖縄県との実質上の交渉決裂の瞬間でした。 太田知事が私(首相ではなく秘書官)への電話一本で、17回に及ぶ橋本首相との膝詰め談判で培ってきた関係を一方的に切ってきたのは、その二ヶ月後、98年2月のことでした。
(当時は、そんな戦略的要衝の地を米国が返すはずがないといった外務省等の強い反対を押し切って、首相が首脳外交で実現した返還合意でしたから、残念ながら、県外移設などは「夢のまた夢」のような非現実的なことでした。
しかし、時が経ち、この問題をどうするか、当事者である私でさえ、その考えが変わってきていることは、これまでもインタビューやブログ記事で明らかにしている通りです。)
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