論座 6月号「郵政攻防(2)~橋本行革と郵政民営化」
ドキュメント
郵政攻防(2)
~橋本行革と郵政民営化~
山脇 岳志
最初の山場は、97年8月の集中審議だった。ここでまとまる中間報告の中で、省庁再編や郵政民営化の方向性が示されることになっていた。
野中は事前に、橋本の秘書官、江田憲司から「(郵政は3事業とも)国営と民営の両論併記でいきます」と聞かされていた。野中も、両論併記であればやむをえないと考えていた。ところが、8月21日に行革会議が出した中間報告の中身を知って、野中は驚く。「簡保は民営化、郵貯は民営化準備」という内容が盛り込まれていたからである。
翌朝、野中は自民党本部を訪ねてきた江田に、「爆弾を落とされたなあ」とぼやく。江田は返す言葉がなかった。
元通産官僚で、橋本に重用され「平成の森蘭丸」といわれた江田は、「橋本行革」の陰の主役だった。あらゆる重要な秘密会議の同席し、行革の方向に強い影響を与えた。だが、その江田にしても、この時期に明確な「民営化」の方針が出るのは予想外だった。
当時、大半のマスコミは郵政民営化の必要性を訴え、国鉄民営化を実現した元首相の中曽根康弘も「郵政3事業は、簡保、郵貯、郵便の順に民営化になじむ」という考えを橋本らに伝えていた。橋本も江田も、郵政民営化は必要だと考えていたが、実現できるかどうか自信はなかった。与党内の反対が強かったからだ。このため、中間報告の段階では、両論併記にとどめるつもりだった。
作戦が崩れたきっかけは、まさにハプニングだった。
行革会議の集中審議最終日となった8月21日。会議の冒頭で、議長の橋本は「今日は、一切、物を言うつもりはない」と切り出した。
橋本は朝から不機嫌だった。その日の朝刊各誌が、行革会議が前日に打ち出した大蔵省改革の方針を「骨抜き」と批判していたからだ。橋本が会議の席で「信用秩序の維持についてはクレームをつけていない」と発言したことが、財政と金融機能の分離見送りにつながったとみられていた。「大蔵省改革こそ行革のかなめ」と張り切っていた江田も、この方針に失望し、橋本に怒りをぶつけていた。
週明けの17日から20日まで、行革会議の集中審議が行なわれ、省庁再編や郵政事業民営化の全体像が示される予定になっていた。野中はその前に、橋本と詰める必要があった。
人目につかず官邸に入ることに成功した野中は、中庭を抜けて隣接する公邸にたどり着き、橋本と向き合った。
野中は、橋本にこう伝えた。
「郵政事業は、公社にしたい。郵政省の通信部門については、運輸省と合併して『交通通信省』にするでどうか」
橋本は、交通通信省は認めなかったが、公社については了解した。隣の部屋にいた江田が、途中から2人の会談に加わった。
同じ日の夕方、首相官邸を訪れた小里と川端に、橋本は「大枠は決めたから、あとは江田と詰めてくれ」と告げた。3人は東京・赤坂にある全日空ホテルに移り、詳細を協議した。
97年12月3日、行革会議がまとめた最終報告には、郵政事業の公社化が明記された。郵政省のうち、通信・放送関係の部局と郵政事業の企画部門は、自治省、総務省と一緒になって、巨大な「総務省」が発足することになった。
「郵政事業は公社のまま永続できる」と信じていた野中とは対照的に、「公社化されればいずれは民営化に進む」と予測していた人物がいる。橋本の秘書官だった江田である。江田は、公社になれば、職員たちは国からの予算や人事への統制をうとましく思うようになり、自発的に民営化を求めるようになる、と97年当時から見越していた。
野中がこだわった「民営化の見直しは行なわない」という法律の条文についても、江田は「過去20年の官僚経験からすれば、(条文は)気休めでしかない」と思っていたという。
野中が勝利をおさめたかにみえた橋本行革。だが、結果的には、この時に郵政民営化へのレールが着実に敷かれていたことになる。
郵政改革議論ではいまなお、政府と自民党の間で激しい攻防が続いている。
(文中敬称略)
(論座 2005.6号より一部)
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