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江田けんじ 衆議院議員 神奈川8区選出(横浜市青葉区・緑区・都筑区)

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金融ビジネス 5/1発売号  「激動の90年代 金融と政治」 掲載

2005年5月 1日 メディア情報 | 新聞・雑誌 tag: , ,

金融ビジネス 5/1発売号 「激動の90年代 金融と政治」
                       ノンフィクション作家  塩田 潮

 「財政・金融分離を巡る政と官の攻防」

金融ビッグバンに仕掛けた大蔵省の隠れた狙い


 90年代以降の金融行政の変革は以下のような流れだった。96年1月、政権を握った橋本首相は、10月の総選挙を乗り切って続投を果たすと、11月11日に三塚博蔵相に「日本版ビッグバン」を指示した。東京金融市場の活性化を図る大規模な規制改革の実現を目指すことにした。
 首相秘書官だった通産省出身の江田憲司(前衆議院議員)が明かす。
 「金融ビッグバンは大蔵省が仕掛けてきたメニューです。総選挙を控えて橋本改革を打ち出したとき、大蔵省からきていた首相秘書官を通じて、われわれのブレーンストーミングの中に入れてきた」
 金融ビッグバンは不可避の改革と受け止めていた橋本は、大蔵省の提案を受け入れた。江田が続ける。
 「『変革・創造内閣』をうたい、あらゆる社会経済システムの変革を目指した一環として金融ビッグバンも取り上げた。だが、実際はバブルのときか、遅くとも宮沢喜一首相が不良債権問題に言及したころにやっておくべきだった。延ばし延ばしにしてきた問題だったが、たまたま構造改革を旗印にしたせいけんだったので、波に乗ってやってしまった」  だが、大蔵省には隠れた狙いがあった、と江田は見ている。
 「組織防衛です。すでに財政と金融の分離が議論になっていた。財政当局は金融行政でまだまだ大きな仕事が残っていると身をもって示すために、橋本改革プランに金融ビッグバンを入れ込んできた。首相はその底意を見抜けなかった」
 大蔵省は財政・金融一体論に固執した。権限の分離や組織の分割の阻止に躍起となった。ビッグバンで金融の規制改革と自由化が進むと、大変革の波が襲う。混乱の回避には既存の財政・金融一体体制が不可欠という声が高まると踏んだのだ。
 橋本内閣は金融ビッグバンに取り組んだ。ところが、1年後の97年11月、北海道拓殖銀行と山一證券の連続破綻が発生する。危機回避と経済悪化に無力で、「経済失政」の烙印を押された。翌98年7月の参院選で大敗を喫し、政権は崩壊した。
 金融危機や景気崩落を招いたのは橋本内閣の財政構造改革路線といわれた。村山内閣で決定済みだった消費税率の引き上げや特別減税廃止をそのまま容認した。医療保険改革による負担も含めて97年だけで総額9兆円の負担増を国民に押し付けたのが「経済失政」の主因と見られた。
 だが、江田は異説を唱える。
 「私はビッグバン元凶説です。大蔵省ですら不良債権額など金融の実態を正確に把握していなかった。金融機関が疲弊していた中で大手術をやってしまった。その結果、金融パニックです。金融収縮が起こり、それが引き金で大不況に突入した」
 日本の金融の将来を考えれば、金融ビッグバンは必要不可欠の選択だったが、タイミングは悪かった、と江田は述懐する。

自民にも反対多かった検査と監督の一体分離
 大蔵省改革の一環である財・金分離の検討は省庁再編問題と並行して進められた。江田が解説する。
 「橋本首相は東京の金融市場がどんどん空洞化していくことに大変な危機意識があった。それで金融行政にも強い関心を寄せた」
 橋本首相は96年秋、検査と監督の一体分離を決断した。江田が経緯を語る。
 「多く多少は各所に全部、根回しして検査だけの分離を唱えていた。だが、旧態依然の行政では金融の競争力がなくなるという意識から、橋本首相が発言して一体分離の流れをつくった。われわれも自民党の加藤紘一幹事長などに根回しして一体分離の金融監督庁構想ができ上がった」
 自民党には一体分離に反対の議員が少なくなかったと江田は言う。
 「綱引きは自民党の大蔵族や大蔵省の根回しを受けた議員との確執。一番は山崎拓さん(元副総裁)や村上正邦さん(元労相)たちでした」
 ところが、翌97年秋、大型金融危機が襲う。江田の証言が続く。
 「実は橋元首相は拓銀の破綻が近いことは夏ごろからわかっていて、都銀の一角が崩れるときに金融を分離して本当に大丈夫なのかという疑念があった。私は『省庁再編は01年からで、金融の分離とはいっても、すぐの話ではありません。財政と金融が一体であることの弊害は大きいですよ』と言った。だが、首相は目の前に拓銀の破綻が迫っていて逡巡していた。だけど、最後に決断して97年11月に完全分離を決めたんです」

金融分離阻止を狙った?山一廃業の「大蔵省陰謀説」
 首相官邸は加藤幹事長の了解を取りつける。橋本とさきがけの武村代表が会談を行なったうえで完全分離を公表するシナリオを用意した。
 ところが、思いがけない展開となる。江田が内幕を詳細に述べる。
 「決意を固めた橋本首相は11月14日の金曜日、大蔵省の小林武次官を呼んで完全分離を支持した」
 それは拓銀が破綻する数時間前である。大蔵省に拓銀破綻の通知が届いて間もなく、山一證券の野沢正平社長が大蔵省の長野厖士証券局長を訪ねた。
 「野沢社長は長野支局に、飛ばしがあって薄外債務が見つかったと報告した。だが、長野局長はそこでは『三洋証券(11月3日に倒産)と違って、山一はツー・ビッグだから潰せない。助ける』と言った。ところが、土曜と日曜を挟んで次に野沢社長が長野局長のところに行ったときに、いきなり自主廃業にした。山一は債務超過でもないのに自主廃業にさせられたわけです」
 同じ日に行なわれた橋本首相の金融完全分離の指示と山一の自主廃業決定の「符合」は偶然なのか。江田は「その先は推測」と断って、こんな見方を披露する。
 「このままだと財政と金融が分離されると思った大蔵省の官房筋が、山一をいきなり自主廃業した。金融パニック状況のときに組織いじりはまかりならんという意見が強くなる。いったんは先送りにするということだったのではないか。結果的に金融分離の議論が頓挫して先送りになった。証拠はないが、『奇妙な符号』からそういう推理も成り立つ」
 財・金分離阻止を狙って大蔵省が金融破綻を仕掛けたという「大蔵省陰謀説」を、江田はストレートに支持しているわけではないが、「いまも疑問に思っている」と話す。


  ── (「金融ビジネス」No.242 より) ──

東京新聞 夕刊(9/18付)  「心の語録」 に掲載
産経新聞 (5/9付)  「わたしの母」 に記事掲載