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江田けんじ 衆議院議員 神奈川8区選出(横浜市青葉区・緑区・都筑区)

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「月刊エネルギーフォーラム10月号」にインタビュー記事掲載

2010年10月 8日 新聞・雑誌 | 活動報告 tag:

しがらみのない政治が原点

 参院選で大敗した民主党に変わり、国民の期待を集める「みんなの党」。政界再編と地域が主役の成長路線を声高に訴える。党運営の中枢を担う江田憲司幹事長は、次期衆院選での政権奪取に意欲をみせる。

 参院選での大敗後、支持率低迷にあえぐ民主党。その要因を「マネジメント(管理)能力の欠如」と分析する。政治主導を訴え政権交代を成し遂げたが、「政治とカネ」や米軍普天間基地移設問題などで迷走を続け、国民の期待を裏切った。特に、普天間問題には思い入れがある。官僚時代に橋本龍太郎首相(当時)の秘書官を務め、その返還や移設先の決定に携わったからだ。「過去の経緯を台無しにした」民主党の対応に、怒りを通り越し、呆れ果てている。

 「今の政治では、政策が前に進まない」と怒りをにじませる。「考え方が違う人間が同じ政党に所属し、党内で足を引っ張り合っている」からだという。みんなの党が主張するのは、政治家同士の好き嫌いではなく、共通の政策を実現したいという人間が集う「この指とまれ」再編だ。そして、財源を地方に移し、民間が主役の小さな政府を目指す。「それが国の成長につながる」。その言葉の裏に強い決意がにじむ。

先輩幹部の姿に愕然

 大学卒業後、通商産業省(現経済産業省)の官僚として霞ヶ関に身を置いた。「国を良くしよう」。入省時には高い志があった。官房総務課で法案の作成などを担当する。当時の残業時間は月200時間を超え、「通常残業省」と揶揄された。そんな労働環境も厭わず、自らを奮い立たせた。猛烈に働く日々の中で、行政改革に頑なに抵抗する先輩幹部の姿を目にする。「これが20年後の自分の姿か」。そう思うと、このまま働き続ける気にはなれなかった。

 1998年7月、橋本内閣退陣と同時に首相に辞表を提出。通産省にも戻らず、42歳で「人生をリセットした」。官僚時代には使う暇がなかった金を使って、ハワイで一年に及ぶ放浪生活。読書と水泳に明け暮れる中で、自身の将来を考えた。

 帰国後、橋本元首相と親交の深かった菅義偉元総務相からの要請を受け、2000年6月の衆院選に自民党公認で出馬するも落選。その後、自民党を離党し無所属で臨んだ2年後の補欠選挙で、念願の議員バッジを手にした。

主張貫いた無所属時代

 政治の世界に足を踏み入れる気はなかった。選挙を最優先し、会う人によって意見を変える政治家と省益と組織防衛を優先する官僚。どちらにも嫌気がさしていた。だが、秘書官時代に「選挙で選ばれたわけでもないのに国政を動かしている」と批判され、「自分の力でこの国を変える。そのために選挙で見返したい」という思いもあった。

 初当選から約7年間、無所属を貫いた。一人ではできることが限られていたが、こつこつと質問主意書を出し、自らの主張を訴えた。この間、二度目の落選を経験。現首相の菅直人氏から民主党入りを打診されたこともある。しかし、「労組依存では目指す政治は実現できない」と突っぱねた。自民党からの誘いも、業界依存を理由に断った。「しがらみのない政治を実現する」という自らの原点を忘れることはなかった。

行財政改革への執念

 一方で、政権をとらなければ自らの政策を実現することはできないと実感する。2009年8月、脱官僚や地域主権などで志を同じくする渡辺喜美氏らとみんなの党を結成。自身の夢に向かって大きな一歩を踏み出した。

 税金の無駄遣いを見直す行財政改革とデフレ脱却・経済成長が公約の二本柱だ。年率で名目4%成長を目標に、法人税の20%台への引き下げや世界市場へのインフラ輸出、医療・教育・農業など成長分野の規制緩和など日本の経済成長に向けた具体策を公約に盛り込んだ。「具体性に欠ける」民主党の政策を批判し、日本の進むべき道を国民に示した。

 国益にかかわるエネルギー問題にも強い危機感を抱く。「食糧や国防と同じ安全保障に関わる問題にもかかわらず、政権の中枢にエネルギー戦略を考える機関がない」と政府与党に苦言を呈す。
 口先だけの政治家にはならない。国民のため、身を賭す覚悟がある。


《経歴》みんなの党幹事長
1956年生まれ。岡山県出身。東大法学部卒業後、通産省入省。2002年、衆議院議員初当選。7年余りの無所属での活動を経て、09年8月にみんなの党を結成。幹事長に就任。


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